学力向上

serohan氏の記事http://d.hatena.ne.jp/serohan/20060225に触発されて書いて見る。

昨日の参観日の後の懇談会も、早目に終わり、親しいお母さん数人と担任を交え、話をしたのですが、そこで出た話題が「何故中学校へと進学をすると、塾へと通う子が増えるのか」
「小学校までは、きちんと授業を受けている子供達が、中学校に行った途端学力が下がるとしたら、それは中学校側の怠慢ではないか」との意見が出たのでした。
「塾に通える生徒が、成績が良くなるのならば、お金が無ければ学力が付かないということ。これは、教育の機会均等を標榜している公立学校のあるべき姿から、遠ざかっているのでは」
等など、鋭い意見が飛び交ったのでした。

塾講師の立場から言うと、現在の学校では学力向上は難しい、と思う。学力を効率的に向上させるためには、次の二つが不可欠だ。
1 授業の邪魔をする生徒を排除できること。
2 授業を効率的に進めるために、習熟度別クラスを採用すること。
おそらく二つとも速攻却下されるだろう。
1については、塾では明らかに授業を邪魔をする生徒を退塾させる事が出来る。退塾のさせ方に注意を払う必要はあるが。いきなり「君は授業態度が悪いから退塾」という風にしてはいけない。以前のバイト先の塾が生徒が集まらず、閉鎖になったのは明らかに当時の塾長が学力不足の生徒に対し、「学力不足につき退塾」としたからだと私は思っている。あのころ塾長は憑かれたように「厳しい姿勢」と言っていたが、そういうところで「厳しい姿勢」を付け焼き刃的に取るようではダメに決まっている。今のバイト先の塾長は徹底している。態度の悪い生徒の場合。「お子様のことですが、かなり塾で悩んでおられるようです。もう一度お子様と話し合ってみられたらいががでしょうか」という。大体塾で問題行動を起こす生徒は、その塾での勉強に違和感を感じているから問題行動をするのであって、話し合えばほとんど自主的に退塾する、という結果になる。学力不足の場合は、やはり足を引っ張るので、退塾してもらうことになるが、そういう時のトークは「お子様は当塾の方針にはあっていないかもしれません。もう少し少人数で丁寧に見るような方針の塾の方があっていると思います」と言う。これもほぼ退塾と相成る。ついでにこちらから知り合いでそういう方針の塾を紹介してもいい。これで悪評が広まることを避けられる。
2 習熟度は差が出る。国語ではあまり差は出ないので、苦手な生徒と得意な生徒を一緒にしても不都合は出ないが、社会だと大変困る。得意な生徒は基本的な事項は全て押さえているので、そこを詳しく説明していると退屈する。無駄な時間だからだ。苦手な生徒は地理だと県名と県庁所在地を覚えさせるところから始めなければならない。得意な生徒はいきなり表やグラフの読み取り方を教えることが出来る。算数と理科は社会と同様だ。だから習熟度別クラスでないと、効率的に授業を進めることは出来ない。それが出来ないところでは、平均的なレベルに設定することにならざるを得ないだろう。それだと優秀な生徒は退屈するし、時間も無駄になる。一方できない生徒にとってはわけが分からないので、結局時間の無駄になる。ちなみに進学塾ではクラス内のばらつきをどうするか、と言えば、当然一番出来る生徒に合わせる。ついてこれない生徒は努力するべきなのだ。もっとも現実は、といえば、出来る生徒はますます頑張るし、出来ない生徒は、そもそも努力することができないから落ちこぼれているのであって、両者の差はますます開いていくばかりなのだが、そして格差は固定されていく。
ちなみに塾では成績順の着席も普通である。成績は可視化される必要がある。テストを返す時にも名前と点数を読み上げる。中には読み上げるのがはばかられるような点数もあるが、そういう時は「○○、頑張ってよ」という。どちらにせよ、ひどい点数であることも可視化される。塾はそうやって点数を上げさせているのだ。学校もそれに習うべきだろうか。私はそうは思わない。はっきり言うが、塾では人格の陶冶などということは出来ない。点数を上げるだけだ。「うちは人格教育にも力を入れています」という塾もあるだろう。しかしそれは副次的である。
学校教育というのは、点取りマシーンをつくるところではない。学校に行く生徒がみんな将来大学に進学するのであれば、それもありだろう。しかし学歴を求めない生徒もいるのである。公立学校まで塾のような成果主義の世界に染まるのは、どうだろうな、と思う。
成果主義の権化のようなところで飯の種を稼いでいるわけであるが、私自身は今日流行の成果主義、頑張った人が報われる社会、機会の平等という風潮には疑問がある。これらは格差の固定をもたらすのだ。格差社会の固定化現象の最前線にいると、よく見えるものがある。
ちなみにその最前線にいる塾講師はほとんどが下流であることも特筆しておく必要があるだろう。どう考えても格差社会下流に格付けされている塾講師が上流の人間を生産し、固定化する現場にいるのだから因果なものだ。