「学校の授業だけで、進学に支障をきたすのは、学校側の怠慢か」に寄せて

以下のserohan氏のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/serohan/20060227にまたまた触発されて書いて見る。というのは、私自身の体験として他人事ではないように思われるからだ。

「習っていないこと」は、わからなくとも、出来なくとも当然の人たちが、増えてきていました。それまでの職業人としての基本は「わからない、習ってないは、言い訳にはならぬ」でしたから、周囲の先輩の仕事振りを見て覚えて行くものでしたが、その常識が通じなくなってしまっていたのです。
数いる中でしたから、自ら進んで仕事を覚えていこうとする、意欲的な新人も勿論いました。
小学卒業程度の知識を身に付けさせるのは、親としての最低限の義務・・・そう思うようになったのでした。私が中学校での習熟度別授業が良いのではないかと思う点は、そんなこともあってなのです。
わからないことを、50分間黙って坐って聞いていられないのも、仕方ないのかも。でも、昔の子供は、坐っていたわね。う〜〜ん、昔が良かったとか言うのではなく、何故なのだろう。
習熟度別授業にすると、その差が固定し、益々開く・・・そのような意見もありました

私自身も習熟度別クラス導入は不可欠だと思う。進学を目的とするしないにかかわらず、現状のようなごった煮では最大多数の不幸が訪れるだけだ。ただ問題はそれを保護側が受け入れられるか、だ。下のクラスに行くことは恥ずかしいことではない。学力に合わせて自分に合ったクラスに行くのだ。ということを保護者が理解してくれればやりやすいだろう。しかし実際はクラスが落ちたら文句を言いに行く保護者が多いのではないだろうか。
それは置いといて私が他人事ではない、と感じたのは「「習っていないこと」は、わからなくとも、出来なくとも当然の人たちが、増えてきていました」という箇所。実は私は高校卒業から約20年なので、実は「最近の若いもの」の一員である。三浦展氏の分類では「新人類」である。そういう自分の立場をとりあえず棚上げして「若い人」の無知ぶりを示す事例に遭遇した。
サイトで。ある歴史的事象、例えば中学生の教科書に記述されている内容についての無知を指摘されると「私は生まれてすらないのだから知っていなくてあたりまえ。当事者でないのだから、知らないものは知らない。ただそれだけ。私からすれば、自分が見ても聞いてもいないものを、さも体験したかのように語ることができる人のほうが不思議?なおかつ、そんな正確とは言いがたい意見を他人に押し付けることができるほうが不思議。知ったかぶりをするのは簡単。知ってるつもりになるもの簡単。自分がどっかから拾ってきた情報をさも「定説」のように振りかざすのも簡単。どこかの誰かさんが書いた本を鵜呑みにして「正義感」を振りかざすのも簡単。知ったかぶりをするより、私は「知らないものは知らない」と言うことを選びます。」と開き直る感性。しかもそれを支持する声がネット上では強いわけだ。こういう人々に何を話せばいいのだろう。結論は「そんなわけで「(ある歴史的事象)」は、私にとっては勉強すべきこととしての順位は低い、というか、ランク外なわけで。そんなことを勉強するよりもっと他のことを勉強するし、働くし、遊びます。」と結論づける。この(ある歴史的事象)の部分に九九とかを入れるとserohan氏を悩ませた「若い人」になるわけだ。
ちなみに先日我が塾で行なわれた月例テスト。社会で百点満点で19点のヤツがいた。14点もいたけど、そいつは社会選択していないので仕方がない。過去には源頼朝を知らないまま塾を出ていって一流中学に行ったヤツいるしな。兵庫県の学校は社会が入試科目にないのが多いので、そういう「秀才」を輩出するわけだ。日本の未来は暗いかも。