荒川静香論

荒川静香選手の金メダル獲得、「脳みそが筋肉で出来ているナショナリスト*1」の私は素直に喜んだ。のみならず「ミーハー」なのでフィギュアにも関心を持ってしまった。
ところがネットを見て見ると、私とは違って理論を重んじる人々がいて、荒川選手が3−3回転を3−2回転に変更したところなど、いろいろと考えている人々がいるようだ。あるいはスルツカヤ選手が転倒した時に「やったー!!!」と思うのはおかしい、とか。
私はスルツカヤ選手が転倒した瞬間は、青森の温泉で爆睡していたので、残念ながら叫べなかったのだが、「心が卑しい」私は多分叫ばないまでも心の中で喝采を叫んだのではないだろうか。
今回、私はスルツカヤ選手が転倒した瞬間喝采を叫んだであろう「心卑しい」私、荒川選手の金メダルを喜んだ「ナショナリスト」の私を正当化する。
フィギュアスケートを競技と捉えるか、それとも芸術と捉えるかで見解は変わってくるであろう。私の立場は、メダルをかけて競う以上は競技というものである。競技は相手のミスも運も実力の内である。スポーツは正々堂々、などというものだが、野球一つ取って見ても、ミスがなければ、ホームランなど絶対に出ない。2000年、伊藤敦規投手は71試合に登板して、被本塁打数がわずかに一本。野村克也監督は「ホームランを打たせない方法を知っている」と全幅の信頼を寄せていた。ちなみに唯一の被本塁打はシーズン終盤に打たれたものだ。明らかに失投を打たれた。要するに失投しなければホームランは出ないのだ。だからたとえば松井秀喜外野手のホームランを喜んでいる日本人とスルツカヤ選手の転倒に喜んでいる日本人はいずれも「他人の失敗を喜ぶ、心卑しい」人々ということになる。
荒川選手が回転のレベルを下げたことについても、それが優劣を競う競技であれば当然のことで、たとえばワンアウト満塁の局面でストレート勝負、三振ねらいという馬鹿な投球をすることはありえない。引っかけさせてゲッツーねらい。野球は勝たなければ意味がない。オリンピックの競技としてのフィギュアもまさにそうである。ショートプログラムで一位から三位まで一点未満で並ぶという僅差の状態では、フリープログラムにミスをしたものが負ける。さすればミスをしないようにレベルを下げる。これは当然の判断である。ミスをするリスクを軽減する。そのかわり別のリスクを背負うことになる。相手が難度の高い技を多く決めてくる、というリスクである。荒川選手はミスをするリスクの低減を採った。これも一つの勝負である。レベルの高い演技にかけるのも勝負であれば、レベルを下げるのも勝負なのだ。そこの勝負のあやこそ、スポーツ競技としてのフィギュアの見どころなのだ。
最後に荒川選手の勝因の一つと思われるシーンをジャンクスポーツで見た。村主章枝選手、安藤美姫選手が浜田雅功キャスターに声を掛けられて初めて反応したのに、荒川選手だけは自ら浜田キャスターを見つけて声を掛けてきた、ということである。それだけ周囲を見回す余裕があった、ということであり、この余裕は大きな勝因となったであろう。

*1:ちなみに藤原正彦氏の意見では「ナショナリズム」というのは「自国の国益ばかり追及する主義」で「一般国民にとって不必要であり、危険でもある」ものであり、それに対するに「パトリオティズム」を持つ必要がある、とのことである。現在の日本はこの二つが峻別されずに否定され、また全面的に肯定されているところに問題がありそうだ。