イチロー論

イチロー外野手の発言が議論を呼んでいる。以下、イチロー外野手の発言をまとめておきたい。

1「戦った相手が『向こう30年は日本に手が出せない』という感じで勝ちたいと思う」(2月21日福岡合宿の初日)
2「満足していたら、ボクは野球をやめなければいけないと思います」(3月5日、一次予選リーグで韓国に2−3で敗れて)
3「ボクの野球人生の中で最も屈辱的な日です」(3月15日、二次予選リーグで韓国に2−1で敗れて)
4「勝つべきチームが勝つべきだと思っていた。ボクらが(決勝へ)行くのは当然だと思っていましたから。最高に気持ちいいですね」(3月18日、準決勝トーナメントで韓国に6−0で勝って)

イチロー外野手の発言を国家主義的に解釈し、論評するのは危険だ。というのは、現に日韓戦で嫌韓的言辞を弄する人々がいるからだ。彼等は野球には基本的に関心が無く、ただ自分の鬱憤のぶつけどころを求めていろいろな話題に飛びつく。安藤美姫選手の問題に関して見てきたように、たとえばオリンピック選考過程すら知らないような素人*1が自分の政治的主張をぶつける場になってしまっている現状がある。荒川静香選手にしても金メダル放映問題で騒いでいる人々は、間違いなく荒川選手の競技内容などに興味はなく、国威発揚にすら関心は無く*2、ただ何か(この場合NHK)を叩きたいだけだろう。そういう政治的主張がぶつかる場にプロ野球をしてはならない。そのために我々プロ野球ファンができることは、イチロー外野手の発言を政治的文脈から切り離すことだ。イチロー外野手が何を考えているかは関係がない。とにかくイチロー外野手の発言をテクストとして扱い、政治的コンテクストから切り離すことが重要なのだ。どうせイチロー外野手が何を考えていたのか、というのは、ほとんどの人が知りようの無いことであり、イチロー外野手の発言を論じようとすれば、イチロー外野手本人の意図とは無関係に扱われる、つまりテクスト論(すべては読者とテクストの間の問題であって、その裏で作家が何を考えていたかは関係ないという理論)的に、発言者の主観を離れて扱われるものなのである。
1の発言はアジア野球における日本の位置づけを考えればごく普通の発言だ。それに対し韓国メディアが反応するのも当然の反応だ。こういうところから戦いは始まっている。
2について。これは一点差で負けた。それも追加点がとれずに最終回にサヨナラ。石井弘寿投手の投げた球も甘かったのだが、何よりも2点しかとっていない打線をこそイチロー外野手は問題にしたのだ。
3について。前日も論じたが、これは自分に、そして日本代表に出されたメッセージである。韓国に二試合続けて一点差の投手戦。打線の不振の責任をイチロー外野手は一身に背負い込んでいるのだ。
4について。日本はそれくらいの意気込みで臨まなければ、逆に韓国に失礼だろう。何よりもイ・ジョンボム外野手やイ・スンヨプ内野手、そしてソン・ドンヨル投手コーチは日本で苦労し、日本で栄光を勝ち取った選手だ。日本が不甲斐なければ彼等の威光も地に墮ちる。日本のここまでの不甲斐ない戦い振りを一番憂えていたのは彼等ではないだろうか。
韓国チームが二次予選日韓戦終了後に韓国国旗をマウンドにさした件について。掛布雅之氏が言っていたのは「優勝した後ならばいいんです。しかし予選で勝ったくらいであれはいけません。野球の神様を怒らせてしまった」ということだ。私なりに解釈すると、韓国は日本に連勝したことで満足してしまったのではないか、と思うのだ。逆に日本は負けられない一戦だった。3連敗では完全に力の差を見せつけられる。「向こう30年」が日本に向かってしまうのだ。最後にモチベーションが逆転した。逆に言えば両国はモチベーション勝負という域にまで達してきた、といえるだろう。星野仙一SDが言うように日韓交流戦、そしてその到達点としてのアジアリーグ構想、というアジアレベルでの野球による交流を検討すべき時が来たように思う。日韓両国がレベル的にアジアをリードする存在であるだろうし、台湾は既に日韓に迫る力を有している。中国もすぐに追いついてくるだろう。
星野SDは次のように言う。

日韓が交流戦を行なうということが、日韓双方の野球界のさらなる接近、交流と、そして将来につながるどういう新しいきっかけになるか…。それは自明の理でもあるわけだから、もうWBCでの勝った負けたの話題から、明日からは次の「日韓野球の新しい展望」に話題を、焦点を移していってもらいたい。

*1:私もそうなので偉そうなことは言えないが

*2:言葉だけはやけに勇ましいが