小学校で英語教育

今日のニュースでやっていた。国語教師として思うことはある。
英語教育を幼児からやるケースも多く、私の甥も幼児から英語をやっていた。しかも車で一時間近くかけて送り迎え。かなり無駄ではないか、と思ったものだ。早くから英語を話せることに何の意味があるのか、私にはわからない。はっきり言って日本語もまともに読めない小学生(塾にも結構いるのだ)に英語を教えて意味があるのか、と言いたい。英語を早くから教えよう、という意見には言語に対する根本的な誤解があるように思われる。何らかの思考が言語に先行するのではない。言語があって、思考があるのだ。これは視聴覚教育のイロハのはずだ。私が習った視聴覚教育論ではQ病という話をしていた。Q病という病気にかかる。五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)のいずれかを犠牲にしないと助からない、という問い。私の場合、嗅覚はいらない。今でもあまりない。次に触覚、味覚の順番だ。ここの小さい順番は人によっていろいろあるだろう。しかし最後に残るのは視覚か聴覚になる。究極の選択。視覚と聴覚どちらを犠牲にするか。人間はやはり視覚に頼ることが多いので、聴覚を犠牲にしよう、という人が多いようだ。しかし新生児の場合、絶対に視覚なのだそうだ。生まれつき聴覚がないと、言語の習得に時間がかかる。そうなると思考の獲得にも時間がかかる、という話だった。つまり言いたいのは、思考が言語に先行するのではなく、言語が思考に先行するのだ。
つまり「国語」は思考そのものである。外国語はコミュニケーションのための道具である。この二つは根本的に違うのだ。「国語」を習得する前に英語を習得させれば、思考そのものがつかなくなるのではないか、と危惧するのだ。英語の早期教育を主張する人々は多分言語そのものをコミュニケーションのための道具としてしか認識していないのではないか、と思うのだ。