安藤美姫論6

なぜ安藤美姫論にこだわるのか。それは私が安藤美姫選手のファンだからではない。興味は大して湧かない。せいぜい「なるとも」の中の「サバンナのパート行かへん?」に偶然出ていただけだ。CMキャラとしては浅田真央選手の方が面白い。荒川静香選手が巨人からの始球式のオファーを断った理由が「ヤクルトファンだから」というのも面白い。しかし安藤美姫論を徹底的に取り上げたくなる理由は、安藤美姫論がスポーツの政治的言及の一つのモデルケースになるからだ。しかもWBCにおける政治的言及よりも見やすく、論じやすい。
まず安藤美姫選手の「楽しめればいい」という発言に対する某大学教授の言葉(我々が上発言の人)の言及。

。楽しめればいいって言いぐさ、メダルを射程圏内に捉えている海外の一流選手はしませんね。メダルを取る取らないで帰国後の待遇や自分のみならず廻りの人たちの人生も変わってしまうわけですから。この辺りの日本人選手達の国家に対する安直な態度を見ると、戦後教育は、GHQの狙い通りに、見事に「成功」したのだと思ってしまいます。

彼女は戦後教育の最たるものとして批判のターゲットに据えられていることがわかる。村主章枝選手の「皆様に楽しんでもらえればいい」というのは高く評価されているのだが、どちらも「国家」というのを介さない、と言う意味では同じだと思う。しかし氏にかかると安藤選手は戦後教育の最も悪いところになり、村主選手は素晴らしい、となる。本当のところ単に安藤選手が嫌いなだけなのだ。それを「大学教授」にふさわしい重みを持たせようとした時に、彼が動員すべき思想が戦後教育批判だった、というだけのことだろう。
私は安藤選手のこの発言に対しては別の感慨を持つ。おそらく彼女が一番楽しめていないのだ。いわれなきバッシング。自分でも調整不足はわかっている。オリンピックの代表に自分がふさわしくないことは自分が一番分かっていたはずだ。それを振り切るための「楽しめればいい」発言であったように思われる。
次に「知識人」の持つ影響力について。下に引用したのはその教授のブログのコメント欄にあったスケートファンのコメント。

私も佐藤さんの解説、とても好きです。特にお書きになっている”楽しむ”についてのコメント、まさしくそのとおりだと。そして安藤選手の演技に対しては最少の言葉、これが何より真実でしょうね。練習不足、精神的修養の足りなさ、五輪という限られた人しか立つことのできない場所に立つことができる選手であるのに、この演技では、語る言葉もないと。
競技が終わり、あちこちでこれまでのエピソードが語られだしてわかりました。荒川選手、村主選手の練習量がいかにすごいものであったのか。それに対して安藤選手は彼女たちの3分の1だったと。私も面白半分に書き立てる協会の内紛や派閥争いに自分自身の判断、捕らえ方が正しくなかったと反省です。

この人は「反省」している。荒川・村主選手と並んで安藤選手も応援していたことを、だ。「反省」する必要などないのだ。五輪代表選手に選ばれた選手を応援するのはパトリオットとしてもナショナリストとしても至極全うな反応だ。国家の枠組みに捕らわれることを否定する人だけが五輪代表選手を貶めていればいいのだ、と私は思う。しかし「知識人」が安藤選手バッシングを始めると、こうして自分の見方を「反省」して、新たにバッシングに参加する人が出てくる。
ネット→マスコミ→知識人と動いてきた言説は、こうして多くの人々に共有されるのだ。