大学の変質

大学が変わりつつある。先日関西大学理事長の「研究費は教授らが自力で集めるようになってほしい」という発言を取り上げた。立命館大学では教員の一時金を給料一ヶ月分カットした。それで7億円浮かせた、という。いわく「公的資金を得ているから社会的責任があり、したがって社会的責任を果たすために一時金をカットする」ということであるが、「社会的責任」とはつまり教育に回す、ということなのだろう。立命館大学もまた関西大学と同じ考え方に立っているようだ。しかも大学教員の本俸に手を付けた。2006-04-04において「大学経営者のみなさん(いるわけないけど)、やるなら正々堂々と、本俸を削ってください」とあったが、立命館大学は正々堂々と本俸を削っているのだ。まさに「想定の範囲外」。私だって知り合いから聞いた時にはびっくりした。
さらに最近の大学では多くの教員を任期制としている。任期制を導入する大学の言い分は次の通りだ。

優れた教員を安定的に、多数確保するためには、有期限雇用とすることが適切と考えています。私立大学の財政的な制約も背景にありますが、教育に対する社会的なニーズがめまぐるしく変動する中では、一定の期限の中で目的に最大の力を発揮していただくことが有効と考えるからです。

これは常勤講師制度を廃止して嘱託講師と上級講師に改変する大学改革に反対するストが立命館アジア太平洋大学で行なわれた時の大学側の見解であり、大学のサイトにも載せられている。
矢野真知東京大学大学院教授は「大学教授は魅力ある職業ですか?」の中で次のように言う。

三年ほどの任期で特別研究員や研究員、助手、助教授などのポストがあっても、将来の保証は何もない。ポストに就けても、すぐにその後の職を考えないといけない。落ち着いて研究することはできないだろう。しかも、評価、評価の合唱だ。評価能力のあやしい者が、評価の包丁を振り回すから、危険この上ない。30歳をすぎても安心して仕事に打ち込める職業に就けない。これでは結婚もできない。

私はすでに結婚しているので、路頭に迷うわけにはいかないのだ。有期限雇用の職業には就くわけにはいかない。今、私はいろいろな意味(自分の才能とも相談しなければならない)で正念場を迎えているような気がする。
さらに最近驚いたのが、白バラの祈り----ドイツ人の迷い : A Tree at easeで紹介されていた「白バラ−ヒトラーに抗した学生たちー」のパネル展を「政治的」との理由で拒否した大学があった、ということだ。結局は行なわれたが、しかし一端「政治的」という理由で拒否したということからは、大学自体が「政治的」なるものへの拒否感が強くなっているように思う。しかもそれほど圧力がかかるとは思われないものに対してもだ。おそらくどんなに体制的な大学でも「白バラ−ヒトラーに抗した学生たち」を拒否することはあまりないだろう。しかもその大学は「平和と民主主義」を標榜し、「国際平和ミュージアム」まで設置している大学である。これについて次のような意見がある。

日本の大学全体が、批判的精神そのものを「政治的」であるとして(あるいは非生産的であるとして)忌避する空気で充されていますが、「政治的」であることを排除すること自身は極めて偏った強硬な政治的姿勢であることは意識されていないように思います。かつて、右や左の種々の政治的諸団体に利用されて大学が混乱した苦い経験が背景にある偏向とは推測されますが、流通している価値観を無批判には受けいれない精神を育くみ維持することは大学の存在理由の核心にあることを考えるとき、今の日本の大学セクタそのものが社会的存在理由を失いつつあることを象徴するような現象であるように感じます。

私が大学で叩き込まれた人文科学の基本が、政治的であることを排除すること自体が偏った政治的姿勢である、ということだった。そして大学の存在理由はまさに「流通している価値観を無批判には受けいれない精神を育くみ維持すること」と考えてきた。しかし当の大学から思考停止せよ、というメッセージを受け取るならば、私たちは大学で何をやればいいのだろう。ただ単に知識を「教育」するだけならば、おそらく専門学校に一日の長はあるだろう。大学は一体どこに向かおうとしているのだろうか。