私が受けた教育

私がはじめて出会った教師は幼稚園。私立幼稚園で、入園試験はあったが、私は丙午なので、人口が少なく、定員割れのせいか、三歳児検診で知的障害を指摘されながらもその幼稚園に合格した。短大を出たばかりの若い、美人の先生だったようだ。私の記憶ではいつも怒っていた記憶しかないのだが、母によると「○○ちゃん、面白いです。私もあんな男の子が欲しい」と言ってくれていたそうだ。多分苦労すると思う。二年間、その先生に習った。
小学校一年。新婚の先生。途中で先生の名前が変わるのが解せなかった。やはり私のことを「面白い子です。あんな男の子が欲しい」と言ってくれていたようだが、通信簿には「ものごとに対し雑でていねいにできない」と書いてあった。
小学校二年。厳しい先生だった。漢字と計算がからっきしだめな私のために夏休みに特別宿題を用意して下さった。私は夏休みにアメリカに逃亡した。ちなみに弟もその先生に担任をしてもらったようだ。母が「兄は大変でしたけど、弟は少しはましでしょう」と聞いたら目を丸くしていたそうだ。どうやら兄弟そろって問題児だったようだ。
アメリカでは日本の二年生は3rd Gradeになるはずなのだが、英語が話せないので一学年下で様子を見ようということで、一年下に編入された。中年のおばさんの先生だった記憶がある。やさしかった記憶がある。
3rd Grade。めちゃくちゃ太った女の先生。あり得ない体型。いかにもアメリカ的肥満。やさしかった記憶がある。
4th Grade。アメリカでの先生の記憶があまり鮮明ではないのは、最後に習ったこの先生の記憶があまりにも鮮烈だからだろう。男の先生。髭もじゃ。実はアメリカに来た当初、友達と遊んでいて、この先生に叱られた記憶があるのだ。何を叱られたのかは全く分からない。いきなり髭もじゃの男の人がやってきて、英語でまくしたてるのだ。当時全く英語を理解できなかった私にとっては強い印象を残した。だから最初にいだいた印象は「やな先生にあたったな」だった。その先生の教室に行って印象は変わった。動物がいっぱい居たのだ。大蛇がいた。一メートル近い体長のヘビ。ボアコンストリクターであることは一目で分かった。ネズミも飼われていた。液浸標本が並んでいた。私はその先生の虜になった。先生も私をずいぶん気にかけてくれたようで、通信簿にも算数能力にすぐれている(アメリカの生徒は九九を覚えていないから、かけ算のスピードが違う)とか、読書好きだ、とかほめてあった。ただ私がプリントとかをくしゃくしゃにして机の中に放置するのが不思議で親に「あれは日本の風習なのか」と聞いてきたらしい。日本の評判を下げているのは私だ。
五年生。私は日本に帰国した。日共ばりばりのおばさん先生。六年生も担当してもらったが、大化の改新を「大化の改悪」とか言う、左傾教師だった。しかし厳しかった。私の「個性」であるトマト嫌いを認めてくれなかった。家庭科実習でトマトサラダだったのだが、食べられない、とごねると、食べるまで監視された。一生懸命涙を流しながら一切れを食いきったら褒めてくれた。人一倍厳しく、人一倍褒める先生だったように思う。巷間言われる左傾教師が生徒を甘やかして生徒をだめにした、という言説の虚構性は、当時の日共系の教師の教育を見直せばおのずと明らかであろう。さらに言えば自虐史観ではなかった。日本の歴史、日本人、日本の伝統文化に対する誇りを教えられた。日共系の教師が即自虐史観というのも虚構である。彼等は支配機構に対する舌鋒は鋭いが、日本そのものへの誇りは持つように教えていたはずだ。これは戦後歴史学をめぐる史学史的検討を加えても証明されることだ。