論説文

評論の中でも、筆者の論を主張することに主眼がある分野。得意不得意がはっきり出る分野である。文章内容も堅いものが多いので、読むことがそもそもできない。逆に日ごろそういう文章に馴れた生徒は満点をとる。論説文ができるかできないかは、端的に国語の点数の安定につながる。
基本的な読解テクニックは単純だ。筆者がどのような事実に基づいてどのような論を展開しているかを読み取る。その点は随筆と変わらないが、形がはっきりしているので、「序論−本論−結論」を常に意識すること、論理展開もしっかりしているので、接続語・指示語を押さえながら読み進めること。この二点を守れば意外と読めるはず。
しかし大学の研究会でもこういう読みを意外としない。何となくずるずると読んで「これについてはどういうことだろう」と頭をひねっている。そんなものはまず指示語を押さえ、接続語を押さえねばならないだろう、と思ってそういう読みを披歴すると、思わぬ反発を買う。大学の教師は「エリート教育」がきらいなのだ。自分がエリート教育を受けてきたことは棚の上にダンクシュートだ。さらに言えば私のいる大学というのはそんなにエリートでもない、という事情もある。だからしっかりした読みの作法を身に付けていないのだ。
それはさておき、論説文のハードルの高さはそもそもそういう文を読むことができない、というところにある。目が滑るのだ。
長期的な対策としては、大人の文章を読ませる、というのがある。子ども向けにやさしく書かれた、歯ごたえのないカスカスの文章しかよんでいない生徒がいきなり大人が大人のために書いた難しい論説文を読めば、意味がわからないに決まっている。と言っても丸山真男は出ない。外山滋比古とか養老孟司とか鷲田清一とかだ。だから今年は藤原正彦だろう。しかし養老猛も灘・甲陽・神戸女学院では出なかったので、多分このクラスでは出ない。灘・甲陽は五木寛之が好み。こういう好みも押さえておきたい。大事なのはそういう文章を子どもに読ませる以前に親が親しんでいることが必要だ。自分が読めない文を子どもが読めるわけがない。
短期的な対策としては、本文の意味がほとんどわからなくても、点を稼げるだけのスキルを身に付ける、という方法がある。塾の授業は概ねそういうスキルを教える、はずだ。塾の授業をしっかり聞いておきたい。ここで書け、というリクエストもあるだろうが、実際の問題に則して説明しないとうまく説明できないほど細かく、せこいスキルなのだ。塾に来て下さい(笑)。