随筆文

随筆文は受験生から最も嫌われる分野である。曰く「何を言っているのかわからない」「何でそういう結論になるのか理解できない」「勝手に言ってろ」。知里真志保も言っている。「随筆とは筆にまかせてデタラメを書くことだとこの人たちは心得ているのだろうか」(『アイヌ語入門』あとがき)と。
随筆に対して嫌悪感を持っている生徒に向田邦子の『父の詫び状』を読ませる。今度は一気に随筆好きになる。向田邦子の随筆は大体生徒には好評だ。同じ随筆文なのになぜこの違いが出てくるのだろうか。
参考書では随筆文を概ね二つに分けるのが主流となっている。物語的随筆と評論的随筆に分けていることが多い。向田邦子の随筆は物語的随筆になる。評論的随筆文が困るのだ。評論ではないのか、と思う。しかし評論というには論拠がいい加減だ。結局自分が主張したいことはあるのだが、まともな論拠がない場合に「随筆」という逃げを打っているだけではないのか、という言いがかりをつけたくもなる。
私が推奨したいのは「想い出随筆」と「近ごろあったこんな話随筆」という分類だ。
想い出随筆は物語的随筆とほぼ同じ。物語的随筆、というと、物語ではないのか、ということになるので、内容面から分類分けしている。基本は「こんな人、事、物に出会った。今の私を形作ってくれたものだ」という内容だ。「成長の物語」「他者との出会い」という中学受験国語に好適な「道徳」まで含めることが出来るので、便利なのだ。
「近ごろあったこんな話随筆」はいわゆる評論的随筆だ。評論との違いは自分の身の回りのことを題材に自分の意見を述べる、というもので、まあ出来の悪い論説文と考えればいいだろう。
いずれの随筆文にせよポイントは一つ。事実と意見をきっちり押さえること。筆者がどういう事実を元にしてどういう意見を述べているのか。ちなみに共感してもいいが、共感できることを期待してはいけない。どうせ自分の身の回りのことを題材に、説教をかましたい人がつべこべ自分の思い込みを押し付ける、という体のものだ。ここを真面目に読もうとするから訳が分からない。あくまでもこの人はこういう「事実」に基づいて「意見」を述べている、ということを押さえるのみ。基本的にくだらない内容のものであることが多い。たまにいい随筆もあったりするが、これも私の好み以上のものではないだろう。好みに合えばよし、あわなければ割り切る。これが基本だ。そうすれば意味が分からなくてもいらつくことはない。
しかし随筆関係の協会の人の書く随筆ってなんであんなに突っ込みどころ満載なのか。