MacBook Pro at Work 3

ここでは「筆者たちの機種選定の理由」の中から注目すべき論点を紹介したい。栗田伸一氏の場合と金子利政氏の場合である。両氏とも選択した機種は一番軽量で低スペックの100である。2.3kg、68HC000の16MHz。栗田氏の場合は単純である。PowerBookがあるだけでよい、ということで、100。つまり性能面では期待しない、というスタンスだ。

実際に使っていくとコンピュータを中心に物事が進むのはまれ(中略)現場ではまだまだメモ用紙とエンピツの方がいばっていた、アラン・ケイの夢はこのへんで再度研究の必要があるのではないか、、などと大胆な意見が脳裏をかすめるほど、使い勝手には不満を覚えた。

とある。栗田氏が使っているのは、中古車のレストアのパーツマニュアルの検索と、発注書作成である。これについては現在インターネットの普及で大きく進歩した分野であろう。アラン・ケイの夢の実現には、先述した要素の他に、ネットワークの普及が必要だったのだろう。これに大きく寄与したのがジョン・スカリーのナレッジナビゲータ構想である。そしてゴア副大統領の情報スーパーハイウェイ構想である。スカリーとゴアの二人の存在が、今日のネットの普及に大きくかかわっている。
栗田氏の不満を解消するには現在のMacBook Proはうってつけだが、今日市販されている他の全てのパソコンでもいいだろう。ただデータの移行は大変で、氏がハイパーカードを使っていた以上は、クラシック環境は手放せない、ということになるだろうか。実は私もクラシック環境は手放せない。だからiBookは必要不可欠なのだ。早急にデータの移行をはからねばならない。クラシック環境がなく、旧MacOSの資産と完全に決別したIntelMacはその意味でエポックメイキングなMacと言えるだろう。
一方金子氏の議論は特異である。書き出しがArrivedechi,Mac!(Good-bye,Mac!)である。そして「このところのMacintoshには食傷している」と告白する。「醜悪になっていくデザイン」「革新的なイノヴェーションのないマシン」とMacを批判する。その金子氏が選んだのも100。だがその理由はいささか栗田氏をはじめとした100ユーザーとは趣を異にする。基本的に100を選択する最も大きい要素は「軽さ」である。しかし金子氏は「コンパクトさ」にも魅かれながら、もう一方で次のような理由を述べる。

ジョブスはかつてMacintoshを「知的自転車」と呼んだことがある。メモリはたかだか2メガバイト、CPUも68000、ハードディスクもわずか20メガバイトに過ぎない。フロッピーディスクすら内蔵されていないこのPowerBook 100は、本当の意味で「知的自転車」と呼ぶにふさわしい軽快さと、あえて清貧に甘んじる潔さがあるように思う。

氏が私淑するのはアップルの創立者ティーブン・ジョブスである。PowerBookが出た頃のCEOはジョブスがペプシコからヘッドハンティングし、後にジョブスをアップルから追放したスカリーであったことを鑑みれば、ジョブスファンの金子氏がそのころのアップル製品に魅力を感じないのは蓋し当然だ。

そう遠くない将来、どんな対処療法を施しても今のMacintoshアーキテクチャでは立ち行かなくなるのは目に見えている。(中略)おそらく私が手にする最後になるであろうMacintoshが、行き着いた果てに初めてMac512kを手にした頃の懐かしさを感じさせてくれるのは、なんとも皮肉なことである。

ちなみに氏が当時使っていたのがNeXTである。NeXTはジョブスがアップル退社後につくった会社であり、OSであり、マシンであるので、ジョブスファンの氏にとっては必然的な選択だろう。しかし事実は小説より奇なり、とはこのことだ。ジョブスのNeXTもアップルも立ち行かなくなる。Macintoshアーキテクチャは迷走を続けた揚げ句、ジョブスのOpenStepを買収し、いわばNeXTをMacintoshに移植したような形態になったからである。
現在、氏の不満は解消されたのであろうか。その手がかりになる文が氏の担当したもう一つの文「PowerBook−そのデザインコンセプトの可能性」である。次回はこれを検討し、PowerBookの発売から現在のMacBookにいたるデザインの系譜を俯瞰しながら、MacBookの行き着いた地平を検証したい。