MacBook Pro at Work 4

金子利政氏が担当したもう一つの項目は「PowerBookを連れ出す」という章にある。そこで「PowerBook−そのデザインコンセプトの可能性」という項目を書いている。
Macintoshに宿っていた『八百よろずの神々』」
「神は細部に宿る」というミース・ファン・デル・ローエの言葉の引用から始まるこの項目では初代Macintoshが「徹頭徹尾デザインされ尽くした史上稀なマシンであった」という評価を行う。「この頃のMacintoshはスティーブン・ジョブス一個人のマニフェスティックな趣味であるとしか思えない」という氏の評価は「もしPowerBookの開発にカリスマ的なジョブスが関わっていたら、いったいどんなマシンになっていただろうか」としめくくられる。
氏の夢であるジョブスが関わったPowerBookだが、MacBook Proを見る限り、初代PowerBookとそんなに変わらない、というのが私の印象である。PowerBook100と使用感は非常に似ている。デザインの素養は全くないのでわからない、というのが正直なところだろうが、実際PowerBook自体、よくできた設計だったと思うし、PowerBookのDNAは現在も脈々とジョブスによっても受け継がれている、と思う。ただこれがジョブス、そしてジョブスに登用されたジョナサン・アイブの理想像なのか、という点が問題となるであろう。
以下、「フロッグデザインとバウハウスの影響」でも「ジョブスの強烈な美意識」は失われている、と総括し、「DynaBookの影響」ではナレッジ・ナビゲータ構想を批判し、プレートの形態をしていることについて「未来のコンピュータはかくあるべしという既成観念がDynabookによって刷り込まれた、と推測する。さらに「PowerBookはデザイン・コンシャスか?」では「企業とデザイナーのコラボレーション」は「すでに昔日のものになってしまった」と結論する。氏がAppleへのアンチテーゼとして提出しているのが「マリオ・ベリーニからの提案」と項目である。最後に「PowerBookの可能性」という項目で氏は「テクノロジーの進歩で、デザインの自由度が飛躍的に広がるという考え方は幻想である」と述べる。「もしフロッグデザインがそのままApple Computer社に留まっていたら、ベリーニあるいはコルビジェだったら、どのようなPowerBookをデザインしただろうかと想像するのはないものねだりかもしれないが、Apple Computer社がいつまでもフロッグデザインやジョブスの遺産を喰い潰しながら、製品を作り続けるのにはもう限界が来ている」と厳しい評価のあとで「人間がテクノロジーを託す夢をかたちにしたようなPowerBookは出てこないものだろうか」と締めくくる。
金子氏がこの文章をものした1991年から15年が経った現在、PowerBookをめぐるデザインはどうなっているであろうか。
先ほども言ったが、私の印象では確かにPowerBook100に比べてできることは多くなった。特にインターネットにつないでさまざまな調べ物をできる、という点は大きい。しかしデザイン的にはPowerBookとどれだけ変わったか、ということを感じるのだ。ジョブスもプレートの形をしたマシンを出し続けざるを得ないのだ。これはおそらく金子氏が述べるデザインの自由性を奪う要素、ダウンサイジングが原因だろう。
アイブが担当した初代iBookは奇抜なデザインだった。アイブ自身は「削ぎ落として小型化したデザインは表現の余地がなくなるから好まない」という旨の発言*1をしているそうだが、実際には削ぎ落とさないとユーザーに受け入れられない。3Kgを超えるマシンを持ち歩くことは不可能に近い。しかもかさばればなお持ちあることは難しい。MacBook Proがかろうじて持ち歩けるのは、ひとえに薄いことに負っている。薄い、ということは意外に持ち運びやすさに寄与するのだ。極端な話、iBookよりも持ち歩きやすい。もっとも鞄に入れて運ぶ、という前提である。はだかではiBookに軍配があがる。広い面積が仇になるのである。
削ぎ落としたデザインで独自性を主張しようとすれば、せいぜい初代PowerBookG4のようにチタンを全面的に使う、というような素材なり、外見以外で個性を主張せざるを得ない。しかしチタン合金の初代PowerBookG4は傷つきやすく、結局アルミボディになった。これでもかなり目立つと言えば目立つが、しかし初代PowerBookと本質的には変わっていないのである。
大谷和利氏は金子利政氏とは正反対の評価を述べる。「過去に見たこともないアイディアに満ちていた」と。さらに「PowerBookの基本アイディアは他社に臆面もなくコピーされ、今では世界中のほとんどのメーカーが似たようなデザインの製品を発売している」と評価している。
どちらが正しいか、という問題ではないだろう。金子氏はAppleに理想を求めた。「従来のキーボードやマウスは意味がなくなっているはずだ」という記述はそれを裏付ける。大谷氏はAppleが作り出したものを評価する。確かにミクロで見れば、PowerBookのキーボードとトラックボールの配置は、そのころのノートパソコンとは一線を画していた。現在、ノートパソコンの形態はほとんどPowerBookのコピーである。従来のノートパソコンはキーボードが手前にあり、ディスプレイの後ろにまだ本体が続いていた。PowerBookは一番後ろにディスプレイがあり、キーボードも奥の方にあって、手前にトラックボールパームレストがある。机がなくてもひざの上で使える、という面では秀逸だったように思う。大谷氏がPowerBookを見る時、比較対照されているのは従来の98パソコンであった。金子氏はコンピュータを超えたものを見ていたように思う。
ちなみに今のMacBook ProPowerBookに比べて液晶が後ろに開かない。初代PowerBookではほぼ180度に開いたのだが、今のはせいぜい120度位だ。電車の中などで使う時に気になるポイントだ。

*1:大谷和利『Macintosh的デザイン考現学』。