アラン・ケイの危惧

パソコンの父と呼ばれるアラン・ケイ氏のインタビュー「http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/it/alacarte/interview0703/alan_7.shtml」を読んだ。
印象に残った部分を引用する。

多くの人は、コンピュータを使って何かを学ぼうとしていない。単に楽しんでいるだけだ。本来は、人がアイデアを生み出す道具として発明されたはずが、娯楽の一部になってしまっている。こうしたポップ・カルチャーは危険だ。みんなが愚か者になる恐れがある。それは基本的に無知な文化であり、過去を振り返ったり未来を見通すことなく、その場・その時だけを刹那的に体験することに忙しくなりすぎている。(中略)
マクルーハンは、1950年代にこう予言している。「電子によるコミュニケーションに、書くことを避ける能力が加わったとしたら、それは世界を旧文明化へと歩ませる導火線になることだろう」と。彼は、書くことを失った文化を「グローバル・ビレッジ(世界的な村落)」と呼んだが、そうなることを彼は恐れていた。私も同感だ。

現在残念ながらコンピュータを使って学べる環境にはあまりないだろう。アイデアを生み出す道具として発明された、この言葉はまさに「Dynabook」だったはずだ。そして現在の「Dynabook」に命を吹き込むはずだったネットによる大規模な情報集積は、所詮「娯楽」の集積になりはててしまった。私自身えらそうなことは全く言えない。「娯楽の集積」という批判は真っ先に私自身に向けられるべきであろう。
しかし私はブログ文化自体にはそれほど絶望してはいない。自己弁護にもなるが、小林よしのり氏が「自分のうんこで書いた便所の落書き」と言われる「ネット言説」も、確かに典型的な「自己投影」(自分のうんこ)で書かれた無責任な「娯楽」の集積(便所の落書き)なのだが、「書くこと」の訓練にはなる。低レベルなことを書いていても「書くこと」にはならない、という批判はあるだろう。私も「便所の落書き」レベルの言説を書くことに意味があるとも思っていなかった。しかし最近の大学生のレポートを読んでいて気が変わったのだ。一言で言ってひどい、につきる。こういうレポートを大量に読んでいると、ブログ文化というのが、いかに「書くこと」のトレーニングになっているか、ということを思い知るのだ。拙ブログを筆頭に、論証レベルは幼稚だし、考えていることの内容も、表現力も稚拙なものが散見される(もちろん素晴らしい文章も多い。)し、少なくとも人に読ませようという努力を感じる(私の文章はそのレベルに到達しているかはわからない)。レポートといえば、自分の評価に直結するものなのだから、読ませなければならないはずだ。しかしその最低限の努力すら放棄したようなレポートを読み続けていると、どんなに拙劣で幼稚な文章でも、素晴らしく思えてしまう。これは逆に問題なのかもしれないが。大学生の間に「書く」という能力が急速に消えうせているような気がする。
前段でアラン・ケイ氏が述べている「基本的に無知な文化であり、過去を振り返ったり未来を見通すことなく、その場・その時だけを刹那的に体験することに忙しくなりすぎている」という点について。私は現在のブログ文化の多数を占める日常茶飯事の事を述べることが悪いとは全く思わない。確かにそれは娯楽だろう。しかしそれを通じて日ごろ問題となっている事象を見直したりする契機にはなるし、日常の細々とした出来事を記述することを通して「過去を振り返ったり未来を見通すこと」にもなるだろう。問題は「言論」を標榜しているブログ群である。硬直化した政治思想に基づく偏見を対自化することもなく垂れ流すだけの「言論」は、本人が意識していなくても、単に自分の日ごろの憂さを他者の悪口ではらす、という点できわめて「刹那的」であるし、「娯楽」の域を超えていない。問題は「刹那的な」「娯楽」にすぎない「他者の悪口」をあたかも「言論」であるかのように錯覚して、本当に「書くこと」を放棄していることだ。しかもそれが影響力を持って、再生産されていることが問題なのである。
たとえばかつて拙ブログで取り上げた安藤美姫論(安藤美姫論 - 我が九条安藤美姫論2 - 我が九条安藤美姫論3 - 我が九条安藤美姫論4 - 我が九条)。安藤美姫バッシングを繰り返す時に、それが安藤選手に対する個人的な好き嫌いでバッシングすること自体が悪いことではない。問題はそれを自己の政治思想にからめ、大学教師という肩書きと並べて提示することによって「言論ごっこ」に仕立て上げている点にある。特に私が注目したかったのは、安藤美姫バッシングが仕掛けられたのが、安藤美姫選手が6位に終わる以前にすでに掲示板で仕掛けられていたこと、バッシングに加担している人々が基本的に代表選考ルールを知らない可能性があること、そこから考えると何らかの政治的意図をもって仕掛けられた可能性があることであった。しかし本来「は自己の「好悪」に基づく感情的な議論でしかないのに、それをあたかも客観的な「言論」であるかのような装いをするという点に、そういう言説の「刹那的」な「娯楽」性を感じるのだ。アラン・ケイ氏の言葉を借りれば、「こうした言論を装ったポップカルチャーは危険だ。みんなが愚か者になる危険がある」ということになるだろう。現にその言説に誘導されて、安藤選手を応援していたことを恥じていた人もいたのであるから。彼(彼女)は自分の主体的な思考を放棄し、「大学教師」の言論を装った「刹那的な」「娯楽」に屈服したのである。まさに「みんなが愚か者になる危険」を見せられた思いだ。
というわけで、あまりよその悪口を言って「言論ごっこ」をするのも考えものだな、ということを自分に関しては反省しました(笑)。自分で気をつけたいのは「俺は違う」と錯覚していないかな、ということだ。私が論じている問題は自分にもあてはまる可能性は高いので、自分では「俺は違う」と思っているのだが、実際には「俺は違わない」というのが、「論文」を書く時の姿勢だ、と受験生時代に予備校で教えられたな。改めて自戒しよう。