東公園散策記

暑い中、福岡市東公園に向かう。吉塚駅下車後、東公園に向かって歩いていくと、巨大な日蓮像が見える。そのたもとに元寇資料館、そして少し離れたところに亀山上皇像。この三つの関係について見ていきたい。
亀山上皇像だが、これこそ湯地丈雄の元寇記念碑建設運動の結晶である。しかし湯地丈雄の予定とはかなり異なったものだったらしい。当初は亀山上皇ではなく、北条時宗で、その元には日蓮も一緒に表現されるはずだった。9メートルの石柱の上に北条時宗、そしてその記念碑に日蓮の肖像を埋め込む予定だったのだ。その背景には日蓮宗の大きな尽力があった。しかし他の宗派の反発もあって、記念碑から切り離して日蓮像だけを日蓮宗で作ることにした、という。元寇記念碑建設運動はその後かなり募金の不足もあって苦労したようだが、日蓮宗本仏寺の佐野上人の協力もあって日蓮像と同時に1891年完成した、という。だから元寇資料館と元寇記念碑としての亀山上皇像、そして日蓮像はセットとして存在するのだ。つまり元寇記念碑建設運動は日蓮像と密接不可分の関係にある。当然元寇記念碑建設運動と関係の深い『伏敵編』編纂も日蓮宗の運動と関係しているであろう。
なぜ日蓮文書は『伏敵編』からもっぱら引用されるのか。それは『伏敵編』の一つのメインコンテンツが日蓮文書に記されている「元軍の残虐行為」なのであろう。それは矢田一嘯の迫力ある油絵によって広く人々の印象に残ることとなった。
菊池寛は自叙伝「話の屑篭」の中で次のように述べる。

僕たちの少年時代に、元寇の油絵を持ち回って、国防の重大を説いて回った人がいる。その油絵は蒙古の残忍さをまざまざと描いたもので、四十年近い今も、眼に残っている。先日、久米に話したら、久米も同じことを言っていた。都会に育った人は、あまりに知らないが、地方に育った我々と同年配の人々には相当深い感銘を与えたのではないかと思う。

菊池寛が述べる「元寇の油絵を持ち回って、国防の重大を説いて回った人」とは湯地丈雄であろう。そしてその「油絵」が矢田一嘯のものであることは疑いをはさむ余地はない。「蒙古の残忍さ」はおそらく対馬のシーンであろう。そしてその対馬のシーンの論拠が『伏敵編』所収の「高祖遺文録」であろう。しかし『鎌倉遺文』所収の日蓮文書を全文通読する限り、そこから対馬における元軍の残虐性を実証するのはかなり無理がある、と言わざるを得ない。もしあの史料が正しいのであれば、宗助国は敵前逃亡をしたのだ。しかし実際にはそうではない。自分に都合のいい部分だけをつまみ食いにして、都合の悪いところに目をつぶるのは、史料に対して誠実な姿勢ではない。
こう言ったからと言って私は対馬における元軍の残虐行為が全くなかったとは言っていない。おそらく戦闘に伴う一定の残虐行為はあったはずで、それを全く否定するものではありえない。しかし、日蓮文書を掲げてそのことを論証したつもりになるのには、いささか慎重でありたい。
特に「高祖遺文録」が今まで果たしてきた政治的役割を考えるならば、慎重にこの史料を取り扱う姿勢はなお一層要請されるであろう。