足利義持の外交交渉

朝鮮が対馬を攻撃したいわゆる応永の外寇後の義持の外交交渉を見てみたい。
1419年、朝鮮の軍勢が対馬を攻撃した。突然の攻撃のために、一切準備できなかった対馬は甚大な被害を出した。おそらく「元寇」の時よりも大きかったであろう。しかし実数が百人代なので、あまりインパクトがないせいか、あまり言及されることはない。
室町幕府では明と朝鮮が連合して日本本土への攻撃が行われた、と判断した。身に覚えがありすぎたのだ。その直前室町幕府は明との断交を改めて宣言していた。それに対し明の使者であった呂淵は挑発的な言辞を残して日本を去った。対馬攻撃はそれへの報復と考えたのも無理はない。さらに対外危機を煽る寺社の行動は文永・弘安の時に比べると比類が無いほどエスカレートしていた。文永・弘安異国合戦の時に仏神領興行法が出され、多くの寺社領が返付された先例を当てにして、期待がいやがうえにも高まっていたのである。
そのような中、義持が派遣した使者は博多妙楽寺の僧無涯亮倪と博多商人平方吉久である。吉久は元から亡命してきた陳外郎の孫である。
こういう時に露骨に朝鮮を非難する言辞を出すことは、相手をさらに強行路線に走らせるだけだ、という読みがあったのであろう。義持は使者派遣の名目を「大蔵経の求請」とした。普段の外交姿勢を貫こう、というのである。
当時朝鮮国内では対日強行路線を主張する上王太宗と対日協調路線を主張する国王世宗の対立があった。義持がもし強硬な姿勢を取れば、世宗までも強硬派においやる危険があった。これを考慮すると、義持が一見ピント外れにも見える「大蔵経の求請」という名目で使者を送ったのは、蓋し名案であった。
当時朝鮮は日本への攻撃は考えていなかったが、太宗は対馬を朝鮮固有の領土と考え、対馬の併合を考えていたようだ。この大きな外交的危機に義持は、そして義持の使者無涯亮倪と平方吉久はどのように対峙したのだろうか。
続く。