ある日突然ファシズムはやってくる4

私は奨学金を受けたことはない。親の年収がそこそこ高かったので、大学独自の奨学金の受給資格がなかったのだ(育英会奨学金の受給資格は当然ない)。大学院に進学すると、奨学金の受給資格がさらに緩和されるのだが、それでも受給資格はなかった。しかしそれが途中で改められた。親の年収は関係なくなったのだ。私の周囲ではそれを当然視する声が多かった。大学院に入ると、生活費や学費は自分で稼ぐだろう、というわけだ。しかしそれは違う。親が小金持ちで、子どもを甘やかす傾向があれば、学費位出してくれる。おかげで大学院時代は全く金の苦労はしなかった。バイトは高校の宿直だが、これは全て自分の研究費用に回していた。有り余る時間を研究に回すこともできた。
自分で生活費を稼ぐようになると、とたんに研究能力が落ちたことを自覚した。生活に追われるのだ。研究費用も月10万などとは言っていられない。金も時間もままならない。他の人はよくやっていたな、というのが素直な感想。つまり私は親の年収によってげたを履いていたのだ。
こういう私みたいにすでにげたを履いている人と、生活に追われる人と、同一のスタートラインを切らせれば、実力が同じならば結果は明らかだ。私の方が有利だ。私の研究能力の変動を見れば、一目瞭然だ。つまり大学院における奨学金の受給資格の緩和は、実力的にすでに優遇されている人と、不利な条件に置かれている人を同一のスタートラインに立たせる、ということだ。これはどう考えても「公平」ではない。しかし近年の「公平」論はそのような両者を同一のスタートラインに立たせることを「公平」と考える。経済的に不利な条件にある方を支援するような動きには「悪平等」というレッテルを貼り付ける。それによって自分の立場が少しでも有利に働く、と考えているのだろうか。しかしそのような「公平」が、有利に働く人はかなり限られているだろう。
奨学金の受給資格の緩和は、まさに「公平」を体現したものであった。これもネオリベ的「改革」の一端だったのだろう。その後そのネオリベ大学は奨学金のシステムを大幅に変えた。提携金融機関の教育ローンを使わせるようにしたのだ。不採算の奨学金を丸投げ。どこかで行われているような事態だが、この大学では十年以上前から、そういう「不採算事業」には金を使わないシステムが採用されていたのだ。