シャクシャイン戦争

一六六九年に起きたアイヌ最大の対和人戦争であるシャクシャイン戦争は、アイヌの歴史を二分する大きな戦いとされている。具体的には、一四世紀頃には擦文文化とオホーツク文化から変容した前期アイヌ文化が成立するが、シャクシャイン戦争を契機に松前藩に対する十属性が強まり、後期アイヌ文化に変容する、と考えられている。
しかし私自身はこの分類には疑問を感じている。むしろ大きいのは、アイヌモシリが日本に編入される蝦夷地上地の時期であろうと考えている。その前提として、一般には商場知行制から場所請負制へ、という図式で理解されているアイヌと和人の関係の歴史に関して、実際には商場知行制下の場所請負制と、蝦夷地勤番制下の場所請負制とは異なる、という見解が出されている。「夷次第」「自分稼」が商場知行制の大原則であり、それが成立している段階と、日本に編入され、日本の「辺境」に位置づけられてしまった蝦夷地勤番制成立以降のアイヌの歴史は当然全く異なるはずだからである。日本への編入という事件に重きを置かないのは、アイヌをも日本固有のものとして扱う歴史像が戦後日本の基本的な図式だったからである。これは右派のみならず、左派においても同様である。むしろ左派の歴史像の方が「世界史の基本法則」の影響を強く受けているせいか、アイヌをはじめとする少数民族問題に関しては鈍感であった、とすら言えるだろう。
シャクシャイン戦争の動きを大ざっぱに整理する。
まず発端であるが、メナシクル・シブチャリのカモクタインとシュムクル・ハエのオニビシの対立があった、とされる。一六四八年、メナシクルのカモクタインの部下シャクシャインがオニビシ配下のアイヌを殺害するという事件があった。一六五三年、メナシクル惣大将カモクタインが殺害される。五年前の事件の報復だろう。その結果、シャクシャインが惣大将を継承することになる。泥沼化した両者の対立は一六五五年、松前藩の仲介で停戦となる。しかし一六六八年、オニビシが殺害される。オニビシの義兄のウタフは松前藩に訴えるも松前藩黙殺した。これは「夷次第」の原則に則ったものである。両者の争いに不介入の立場を堅持したのだ。
落胆したウタフは松前からの帰途の一六六九年に病死する。その時に「ウタフが松前藩に毒殺」という噂が出回った。これがアイヌに届き、結果シャクシャインは数千のアイヌを率いて挙兵した。松前藩自体はきわめて軍事的には弱体で、数百人の軍勢がやっとである。そもそも一万国の大名が出せる人数は限られている。松前藩は幕府に救援を求める。それに呼応して旗本松前泰広が派遣され、津軽・南部・秋田の三藩に軍役が課せられることとなった。クンヌイでシャクシャイン軍は松前藩に敗北する。さらに江戸から到着した松前泰広が六二八人の軍で出動する。さらに味方夷の帰順工作も行われ、シャクシャインの劣勢は蔽うべくもなかった。松前藩シャクシャインと和睦を行うが、和睦の席でシャクシャインが暗殺され、シャクシャイン戦争は終わりを告げる。同心の和人二人も極刑に処せられた。
戦争後、アイヌ松前藩の間で起請文が交わされる。主な内容は以下の通りである。
1 無条件の忠誠
2 謀反人の密告と紛争の仲裁には藩を立てること
3 和人通行の安全保証
4 鷹待・金堀への乱暴の禁止
5 交易船との紛争の禁止と他藩との交易厳禁
6 交易レートの固定 米一俵と皮二枚または干鮭五束(百本)
7 藩の使者への安全保証
これらの条文を見る限り、従来抑圧的な内容として把握されてきたことは無理もない。確かに1の無条件の忠誠を誓わせる、などは極めて抑圧的だ。しかし6でアイヌ側も大きな成果を手にしている。それは交易レートの固定である。従来鮭と米の交換比率において、米価の上昇に伴い、アイヌに不利な交易が行われていた。これは米価自体が不安定である以上、和人側にとってもやむを得ない仕儀なのだ。しかしシャクシャイン戦争を経て、アイヌは少なくとも一俵=八升と鮭百匹という交換比率を固定することができた。これはアイヌにとって大きな成果でなくて何であろう。アイヌを「剛毅だが朴訥な人々」にしておきたい人々からすれば、これも松前藩の狡知ということになるのだろうが、それはアイヌの交渉能力を過小に評価していないか。さらに言えばアイヌ原始共産制社会のまま固定化された「遅れた人々」という偏見で見ていないだろうか。後に金堀や鷹待の規制も行われる。これは日ごろ金堀や鷹狩りがアイヌの猟場(イウォル)を侵してきたことに対するアイヌの不満が背景にある。結果、シャクシャイン戦争の後、和人の蝦夷地における活動は一旦大幅に抑制されることとなるのである。
これ以降松前藩も大網による漁業を禁止するなど、生態系に配慮した政策を展開するようになる。松前藩のこの方針は藩の財政悪化を改革するため、民間にできることは民間に、という財政改革の中で、大資本が蝦夷地に大々的に関与するようになって崩壊する。さらに江戸幕府は大資本の要請を受け入れて、大網による大規模漁業を解禁し、それがアイヌの漁業活動に打撃を与え、アイヌは和人資本の大規模漁業の下層労働者として位置づけられていくのである。今日我々がステロタイプとして持つアイヌ像は、実は場所請負制のもとで下層労働者として位置づけられているアイヌの姿なのである。このステロタイプアイヌ像は、松前藩をヒールとすることで成立し、江戸幕府、ひいては「日本」を免責することで成立しているのだ。
江戸幕府が描き出すアイヌ像と対極に位置するのがアレクセイ・マクシモヴィッチである。彼はウルップ島でゴロウニンに雇われ、通訳として活躍した。ゴロウニン釈放後、彼もロシアに行き、皇帝アレキサンドル一世より短剣を賜与され、終身年金を支給されることになった。アレクセイは特別な人なのだろうか。そうではあるまい。もともと交易をなりわいとしていたアイヌにとって、アレクセイのような人はごく普通にいたに違いないのだ。でなければ交易民として存在できまい。アイヌ独自の風俗を「野蛮」と見る、あるいは「純朴」と見る。いずれも同種のステロタイプに毒されているのだ。そのステロタイプはロシア対策に腐心する江戸幕府によって創出され、近代に入っても政治的要請から再生産され続けた虚像である。
この話、もう少し続ける。