『休明光記』

松前藩は、アイヌ勘定を行えるようにするために、アイヌに日本語を禁じ、アイヌを愚民の状態において、自由に搾取していた。
などという差別言説が現在も「良心的」な言説としてまかり通るのは、やはり問題だろう。日本語を話せないと「愚民」というのは日本語は文明語で、アイヌ語はだめな言語、ということか。
固有言語に文字がないことと、日常言語の書記化の有無は別問題であることは言うまでもない。アイヌ語に文字がないからといって、彼らが全く文字を解さない民族であった、ということはない。例えばゴローニンの通訳を務めていたのはクリルアイヌのアレクセイ(もちろん洗礼名)であったが、彼はロシア語と日本語とクリルアイヌ語をあやつる「国際人」であった。したがってアイヌに対して日本語を完全に禁止したわけではないのだ。むしろアイヌは普段松前藩と交渉するに当たって、基本的に日本語を話す必要がなかった、というのが正しい。松前藩アイヌ語を習得し、アイヌと交渉していたのだ。これを「日本語の禁止」というのは当たらない。また松前藩アイヌに対してアイヌ文化を日本風に矯正しようとはしなかった。
アイヌに日本風俗を矯正し、日本名を付け、日本語を強制したのは江戸幕府である。
一八世紀になるとロシアが極東地域に進出してくる。従来松前藩が管轄していた「異域」はアイヌだけであったが、一八世紀になるとロシアと対峙しなければならなくなる。しかし松前藩は一万石格の小大名であり、武備も整っていなかった。江戸幕府の中には老中首座松平定信のように蝦夷地を緩衝地帯として残したい、という考えがある一方で、老中本多忠壽のように蝦夷地を幕府直轄にして対ロシア最前線基地とするべきだ、という考えもあった。
一七八九年、クナシリ場所を請け負ってきた飛騨屋に不満をつのらせたアイヌが立ち上がり、クナシリ・メナシの戦いが起こる。飛騨屋と松前藩はお互いに責任をなすりつけあうが、結局定信は緩衝地帯として松前藩を存続させる方針を選択した。その後ラクスマン根室に来航し、定信は来航許可証をラクスマンに渡す。
その後定信は失脚し、忠壽が幕府の政策決定に大きな影響を及ぼすようになると、蝦夷地は幕府の直轄地として接収されることになる。一七九九年に東蝦夷地が直轄地になる。この時初めて北海道が「日本」に編入されたのである。
直轄地になった蝦夷地に派遣されたのが、羽太正養である。彼の著書が『休明光記』である。ここで彼は松前藩アイヌに対して日本語を禁止した、とか、アイヌは日本の風俗を禁止されたということを記したのである。
正養の意図は明白である。正養は、松前藩の改易、転封をにらんで蝦夷地に派遣されたのである。松前藩アイヌに対していかに非道なことをしているのか、ということを主張することに眼目がある。その時に選ばれた事象が、松前藩アイヌに対して日本人扱いをしていない、ということだったのだ。アイヌとその土地であるアイヌモシリを日本に編入することが正養の最終目標である。『休明光記』はそのためのイデオロギーだったのだ。『休明光記』のかかる背景を無視して、一方的に『休明光記』が描き出す「史実」を「史実」として扱うことは、正養にだまされているにすぎない。
正養のもくろみは思わぬ展開を経て実現する。一八〇四年レザノフが定信の出した許可証を持って長崎に来航する。しかし定信はすでに幕政から退き、定信の出した文書に対して責任を持てない幕府はレザノフを拒否する。怒ったレザノフは部下のフヴォストフに命じてクナシリやカラフトを襲撃させる。正養らは罷免され、さらに蝦夷地は全て上地され、松前藩は梁川に転封となる。
松前藩の理屈を次回は見ていきたい。