クナシリアイヌ社会崩壊の理由に関する考察

クナシリアイヌ社会は一九世紀半ばには崩壊していたようだ。これをクナシリ・メナシの戦いに求める見解もある。しかしこれは史料を検討していないから起こり得る錯誤である。一九世紀初頭にはイコトイがエトロフに逃亡し、エトロフアイヌと軋轢を起こした時、クナシリの惣乙名イコリカヤニとイコトイが対立している。その後近藤重蔵とイコトイの仲介を行ったのもイコリカヤニである。これは近藤重蔵の手記を見れば明らかであるし、近藤重蔵の史料は東京大学出版会から刊行されているので、原文書に当たらなければならない多くの史料に比べると、検討は容易である。近藤重蔵関係文書を否定するのであればともかく、残念ながら近藤重蔵関係文書を検討した跡さえ見られないのは疑問である。
しかし後にクナシリ場所を請け負う藤野家の関係文書によると、クナシリアイヌの人口は激減していて、アバシリなどから人数を調達しなければならなかった、という。なぜ減少したのか。
私が着目したいのは、鱒〆粕である。クナシリ・メナシの戦いの背景としてしばしば挙げられるのだが、実際に使われている記事は極めて少ない。近世農業史関係の研究を見ていても、鱒〆粕に関する記述は見当たらない。ということは、クナシリ・メナシの戦いの原因としては有名だが、その知名度ほどには使われていなかったのではないだろうか。
一つだけ私が見つけたのが、水戸藩の事例である。鯡〆粕が入手困難になった時に、代用として鱒〆粕を使った、という記事である。しかしその後使おうとしたが、今度は鱒〆粕が入手できなくなっていた、という。ここから判断できるのは、鱒〆粕がきわめて不安定な供給しかなされていない、という事実である。
私の推測でしかないのだが、鱒〆粕はほとんど生産されなかったのではないだろうか。おそらく飛騨屋がクナシリ地域に鱒〆粕生産拠点を築いた。それは従来アイヌが利用してこなかった、海中を回遊する鱒(この場合はカラフトマス)を資源として利用したのであるが、それにアイヌの生活も依拠するようになった。日本の経済圏に組み込まれる中で、貨幣を入手する必要に迫られた彼らは、飛騨屋久兵衛や阿部屋伝兵衛の元で労働者として生活することで現金収入を得ていた。しかし生活を他者に握られることは、コミュニティの崩壊の可能性も引き起こすのである。飛騨屋のあとクナシリに入った阿部屋は、やがて鱒〆粕生産から撤退した。阿部屋の撤退後、アイヌに残されていたのは、荒れ果てた開発の負の遺産だけであった。〆粕生産は環境負荷が極めて大きい。クナシリはもはやアイヌが自活できる場所ではなくなっていたのだ。
これがアイヌの人口急減の一つの原因ではないだろうか。日本の大資本による「蝦夷地」の大規模な「開発」はアイヌの大地=アイヌモシリを完全に崩壊させてしまった。松前藩による虐殺をうんぬんするよりも、「日本」による大規模な「開発」を告発することの方が、アイヌ問題の活動家には求められていたはずだ。しかもそれは史料にも現れていることなのである。しかし史料に明白に現れているアイヌモシリの大規模な環境破壊には目をつぶり、ありもしない松前藩の虐殺行為をひたすら強調し続けた「活動家」たちは何を考えていたのか。
それは彼らが江戸幕府の記録だけを見ていたからである。江戸幕府蝦夷地緩衝地論の立場に立っていた松平定信失脚後は一貫して蝦夷地を「日本」化しようとしていた。松前藩に返却した後も、蝦夷地が日本であるという原則は維持された。蝦夷地勤番制の成立である。そのもとではアイヌを異国人扱いしていた松前藩は否定されるべきであったし、開拓使成立以降も松前藩の立場は否定され続けた。松前藩アイヌ衰亡の元凶である、という見方は、アイヌモシリを日本に編入しようとする江戸幕府によって作られた虚像なのだ。
では多くの「活動家」はなぜ江戸幕府にだまされたのであろうか。
江戸時代末期、一人の江戸幕府の「御雇」が蝦夷地をくまなく歩き、松前藩の非道とアイヌ=日本人というイデオロギーをひたすら広め続けた。彼は江戸幕府イデオロギーにほぼ忠実にアイヌの事跡を「記録」し続けた。松前藩の無策と和人商人の横暴。しかし日本の大資本が大網による大規模漁業の解禁を江戸幕府に訴え続け、松前藩がそれに反対し続けたことは、彼の記録には出てこない。大網による大規模な漁業による環境破壊こそがアイヌを追いやった元凶なのだ。松前藩シャクシャイン戦争の教訓から大網を原則禁止していたし、和人の立ち入りも制限していた。女性を蝦夷地にいれない、というのは、和人の定住を禁止していたことの現れなのだ。これはシャクシャイン戦争でアイヌが勝ち取った条件なのだ。しかしそれでは蝦夷地の「日本」編入は進まない。江戸幕府松前藩を悪者にして、蝦夷地を日本に編入しようとしていた。その図式の下でアイヌ社会の崩壊を記録し続けたのが件の幕府の「御雇」である。しかも彼は国学に目覚め、「皇国」を防衛するために蝦夷地を日本に編入する必要性を訴え続けていたのである。それが幕府の目に留まって「御雇」になったのだ。だkら彼が告発するアイヌ社会の惨状は、とうぜん江戸幕府に都合の良いように形作られているのは必然なのだ。しかし多くの人が彼に引っかかった。その代表的な著作が花崎皐平『静かな大地』であり、新谷行『アイヌ民族抵抗史』である。そしてその「御雇」の名前を松浦武四郎という。
松前藩が環境破壊に反対し、江戸幕府が環境破壊を推進していた、という図式は松浦武四郎に依拠する限り出てくるわけはない。そしてアイヌ問題を考える際に必読の文献とされている新谷行や花崎皐平が、さらに言えば多くのアイヌ問題を考える人々が松浦武四郎を無批判に受容する限り、アイヌ史は江戸幕府の描いた図式通りにしか再現されないのである。つまりアイヌ松前藩によって虐待される、救われるべき存在としか描かれない。
こういう図式を大胆に批判したのが岩崎奈緒子『日本近世のアイヌ社会』である。ここで氏はサイードオリエンタリズムの概念を引いて江戸幕府の作り上げた「北門鎖鑰史観」を批判している。私の一連のエントリも氏の業績に多くを依拠している。もしこの問題についてより深めたい、ということであれば、是非一読をお勧めしたい。他に菊池勇夫『エトロフ島』も入手しやすいと思われるので、併せて一読をお勧めしたい。
というわけでアイヌ史に関する一連のエントリはおわり。