ションコ
ノッカマプの惣乙名ションコは田沼意次に提出された文書にその名が見える。それによるとションコも、ツキノエやイコトイと同じくロシアとの交易を行っていたようだ。しかし松前藩との折り合いが悪く、幕府の官僚に「松前藩の者は皆悪人」と訴えているという。意次がロシアとの交易に乗り出そうとした背景には、ションコらの対ロシア交易があり、その窓口を松前藩から江戸幕府の直轄にしようとしたのではないか、とも考えられないでもない。
ションコはクナシリ・メナシの戦い勃発時にはノッカマプにおり、いち早く武装蜂起を知り得る立場にあった。ションコは一八三人の弓射部隊を組織し、危機に晒される和人の救出に奔走した。あれだけの規模の蜂起の中で和人の犠牲者が七一名ですんだのは、ションコの活動があったであろう。彼自身弓矢の名手であったと伝えられている。
ションコが一八三人の弓射部隊を即座に組織しえたことは、当時のアイヌの軍事力を象徴している。この時松前藩は十分な準備期間を経て二六〇人の部隊を派遣するのがやっとであった。一方ションコは急を聞いて一八三人の弓射部隊を組織しえているのである。アイヌの軍事力は松前藩をしのいでいた。そもそも江戸時代の軍事力はきわめて弱体である。江戸時代、武士という名前はあったものの、その大半は行政官僚や知識人であり、実際に戦闘行為を行いえた「武士」は少数だったのだ。総勢二六〇人といっても、そこには補給部隊など裏方が多くを占めていたはずであり、一八三人の純戦闘組織に比べると、その弱体は覆うべくもない。
アイヌが松前藩の圧制にあえいでいた、というのは、あくまでも江戸幕府が対ロシア政策を見据えて作り出した虚像でしかない。岩崎奈緒子氏はそのような史観のことを「北門鎖鑰史観」とした。そして「北門鎖鑰史観」は近代にも対ロシア政策を見据えて継続される。アイヌを低開発の状態に押し込め、アイヌを日本の辺境として位置づける言説は、江戸時代の問題ではなく、むしろ近代日本の問題なのだ。