思想と主張

オカヤドカリが置かれた環境は芳しいものではない。飼育方法が確立していないにも関わらず安直に消費されている現状は憂えるべきものがある。そういう問題点に対し提言したい、というのは必要なことである。しかし、それだけに人に自分の主張を受け入れてもらおうと思えば慎重に論を進める必要がある。例えば多くの人に不快感を与えかねない誹謗中傷のたぐいをその主張に混ぜ込めば、当然にその誹謗中傷に嫌悪感を催す人には受け入れられない。またどう見ても説得性を減殺することになる。これはじぶんが携わっている活動への裏切りですらある。特に政治的主張には慎重にならなければならない。オカヤドカリ問題を論じているその場で偏向した政治思想を掲げれば、それは当然自己の偏向した政治思想のためにオカヤドカリ問題を利用している、と言われても仕方がないであろう。結局それは同様の政治思想を持った人々の言論の場である。同様の政治思想を持った人々にしか広がらないのだ。政治的な問題ならばそれでもいいだろう。しかしオカヤドカリが置かれている現状がかかえる問題とは、そういう問題であろうか。自分の政治思想の偏向ぶりに鈍感であるからこそ、オカヤドカリ問題という、本来政治的主張とは無関係な問題も、政治化するのである。無論政治と全く無関係ではありえない。オカヤドカリ問題の大きな脅威は開発である。開発と保護というデリケートな問題を議論する際に、当然政治的な領域に踏み込むことになる。それだけに安直に自分の政治的主張を前面に押し出しながら、オカヤドカリ問題を議論する姿勢は厳に戒められなければならない。
私は極めて疑問に思うのだが、オカヤドカリ問題と『脱亜論』と何の関係があるのだろう。それも『脱亜論』の原文ではなく、特定の政治的主張を持った人々による訳を載せるのは、自分もその政治勢力に賛同し、その思想を広めるためにオカヤドカリをだしに使っているとしか思えないのだ。
政治的に偏向するのは当然である。しかし自分の政治的偏向を自覚してはじめて政治的偏向を相対化することができるのだ。同様の政治思想を持った人々のサロンはこれはこれで当然意義がある。例えば『脱亜論』を議論し、アジア諸国との関係を考察するのは、『脱亜論』を肯定的に議論しようと、また否定的に議論しようと、それ相応の意義がある。しかしオカヤドカリ問題はそういう場で論じられるべき問題ではないだろう。オカヤドカリが置かれた問題を考察するためには、自分の持っている政治的主張を超えた連帯が必要なのではないのか。
政治的に偏向したことをここまで書き散らしてきた私がこんなことを言っても説得性がないのも事実だが、例えばオカヤドカリ問題は政治的主張を超えて議論すべき問題であると考える。教育基本法「改正」問題や靖国神社参拝問題とは性格が異なるのだ。