不適格教員

不適格教員を排除する、という教育再生会議の方針、まことにけっこう、と言いたいところだが、少し留保を付けたい(かなり婉曲表現)。まあ誰が排除されようと私には直接利害がないので、まあいいどころか、公教育のレベルが下がれば塾にとっては万万歳なのでせいぜいむちゃくちゃな介入をお願いしたい(暴論というかネタ)。
とネタはさておき、不適格教員の「不適格」性を誰が判定するのか、という問題は厳然と残っている。例えば教育委員会の方針に反して国旗・国歌に起立しない教員は不適格か。あるいは非核三原則に反する核武装論を学校で教える人は不適格か。あるいは従軍慰安婦はどうか。教えるのが不適格か、否定するのが不適格か。南京事件はどうだ。おそらく当面はこういう問題に関して踏絵的な「不適格」性の判定は行われず、本当に「不適格な」教員の排除が行われるのだろう。しかし「不適格」の基準をフリーハンドにしてはいろいろ問題が起こってくるのではないだろうか。極端な話、政権政党が変わればその度に教員の大幅な入れ替えがあり、国の教育方針が変動する、という可能性も皆無とは言えまい。まあ無いだろうが。
その時に保護者や生徒の評価も導入する、ということを打ち出している、という。塾では保護者アンケートも生徒アンケートもある。これで評価が決まる塾もあれば、あくまで参考にとどめる塾もある。私が在籍している、あるいは在籍していた塾はいずれも後者であった。現在の塾では多分アンケートがあるのだと思う。「多分」というのは塾長からは公表されていないからだ。そして基本的に給料が上がったり下がったりはない。塾の経営状態で少し変動したことがある位で、安定している現在では全く給料の変動はない。ただ私が少し上昇した時に「保護者からの評判がいい」と言われたので、多分アンケートはあるし、一定程度には関係はしているのかも知れない。
以前いた塾でははっきりアンケートがあった。ただ数字通りに見るのではなく、特定の方針があった。重視されるのは「分かりやすい」という項目。これは「信頼関係を表す」のだそうだ。たとえ経験が浅く、実際にわかりにくい授業をしていても、必死さが生徒に伝わり、生徒も好感を持っていれば「わかりにくい」とは中々書かないものだ。逆に経験豊富でいい教師でも信頼していない生徒は「わかりにくい」と回答する。どんなにアンケートが悪くても研修に回される。ワタミの会長みたいに「能力・適性のない人物に対してどんなに研修しても意味がない」*1という非教育的な人間が教育現場に携わっているところにこの会議の胡散臭さが見える。私の父親もそうであった。一応財界人の端くれであった私の父親も経営効率を優先し、「アホは切る」と公言していた。と同時に「僕みたいなヤツは教育に携わってはいけない。教育が歪む」とも言っていた。ワタミの会長にはそういう自己分析はできないのだろうか。経営者としてやってきたやり方が教育現場にもそのまま通用すると考えて疑わないそのナイーブさには驚く他はない。
アンケートを重視する塾の例としてH学園がある。そこではシングルAとか、メジャーとか昇格するわけだが、基本は生徒のアンケート評価。すると講師は生徒の人気取りに走る。うるさく注意する講師はアンケート結果が下がるので、放置状態らしい。優秀な生徒は塾内で騒ぐと自分が損をするのは分かっているから、塾外でやりたい放題。N駅のホームを自由自在に駆けずり回るしつけの悪いH学園生は、アンケート徹底重視のたまものだ。これを学校現場でやるとどうなるかは想像に難くないのだが、教育することに関心はなく、教育を利用して自分の私利私欲を満たすことしか関心のない人々にはこういうことはどうでもよく、取りあえず売名行為ができればいいのだろう。そのための目玉として「アンケート」が堕されているように思えてならない。まあ私は大学でも塾でもアンケートの洗礼を受けているので、公教育でもせいぜいアンケートでボロボロになれば、また塾への入塾社が増えて商売繁盛となるので、私利私欲的には教育再生の名の元に教育を破壊するのは歓迎なのだが(苦笑)。
教育そのものに関心があるのではなく、教育を利用して一儲けや売名をたくらむ俗物が教育現場をめちゃくちゃにした例を次回は検討したい。某大学と某専門学校の例である。大学は私と関係が深いし、専門学校は塾の同僚がそこで働いているので、事情を知りやすい。

*1:例えば「能力・適性の無い人物に対してどんなに教育しても意味がない」というのとどれだけの違いがあるのだろう。