神風の風景 第一章 敷島の大和心

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一九四四年十月一九日、菅野が群馬県中島飛行機零戦の整備を待っている頃、第一航空艦隊司令長官に内定していた大西瀧治郎中将は二〇一航空隊司令山本栄大佐、飛行長の中島正少佐をマニラ来るように命じた。しかし大西中将自身がマバラカットにむかったため、行き違いになる。マバラカットに到着した大西中将は副長の玉井浅一中佐を呼び、話を切り出した。
「レイテ決戦はぜひとも成功させなければならない。そのためには敵機動部隊の空母の甲板を少なくとも一週間程度は使用不能にする必要がある。零戦に爆弾を抱かせて体当たりをやるほかには攻撃方法がないと思うがどうか」
玉井中佐は大西中将の言を受けて自分のかつての教え子二十三人を呼び出して大西中将の言を伝えると全員が「やります」「やらせてください」と志願した。あとは指揮官である。隊長の中から人物、技量、士気を兼ね備えた人物を選ばなければならない。玉井副長の頭に浮かんだ名前は菅野大尉であった。しかし菅野は内地に出張中。そこで菅野の同期の関行男大尉を呼び出し、特攻隊の指揮官を打診した。しばらく考えていた関大尉は
「ぜひやらせてください」
と返答した。
特攻隊が組織され、本居宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という歌から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が組織された。
十月二十五日、関行男大尉率いる敷島隊は護衛空母セントローに突入、轟沈させ散華した。関大尉の突入は全軍に布告され、二階級特進で中佐になった。
これが菅野が知っていた関大尉突入の経緯である。菅野にとって自分がいれば新妻と生まれたばかりの子どもと年老いた母を残して関大尉が突入することはなかったはずだ、という自責の念にとらわれ、無謀とも言える作戦を己に課し、南海の撃墜王の名をほしいままにしていたのだった。
一九四五年四月十二日深夜、鹿屋基地の医務室で手術直後の菅野と吉田が向き合っていた。飯田中尉の散華を報告に来た杉田庄一飛曹が帰ってから吉田は関の最期の様子を菅野に伝えていたのであった。
関は同盟通信の小野田政特派員に語っていた。
「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛の妻のためにいくんだ。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。どうだ、すばらしいだろう」
しかし敷島隊は三度にわたりさまざまな障害で帰投する。戦果を挙げられない関大尉に対しやがて司令部の目も厳しくなり、関は面罵されることすらあった。そして十月二十五日の四度目の出撃前には「帰ってくるな」とも言われていた。
十月二十一日に重巡洋艦オーストラリアに突入して散華した大和隊の久野好孚中尉や十月二十五日の九時に突入した菊水隊の宮川一飛曹、加藤一飛曹はその突入が敷島隊の十二時よりも三時間も前に突入しているにも関わらず「戦果確認に手間取った」という理由で特攻第一号にはならなかった。
関が特攻第一号に選ばれた理由は二つだ、と吉田は菅野に語った。
「海軍上層部はどうしても兵学校出のエリートに特攻隊第一号の栄誉を担わせたかったのじゃろう。何しろ二十六航戦(航空戦隊)の吉岡忠一中佐は堂々と『神風特攻隊の指揮官として、関大尉を指名したときから、関大尉が一号である。その主力が先に突っ込んでも、他が突っ込んでも一号に変わりないとみるべきだ』と言っていたからの」
「さらに関中佐は爆撃機乗りじゃから、部隊としてもやりたかったのじゃないか。熟練の戦闘機乗りは貴重じゃから」
二つ目には菅野もある出来事がよみがえった。
続く。