神風の風景第一章解説

今回の「神風の風景」に出てくる吉田中佐は架空の人物である。もともとは豊田穣氏の小説「紫電改戦闘機隊」(『オール読み物』一九七二年五月号収載、原題「最後の撃墜王」)に出てくる人物である。役柄は「特攻なんて犬死」という発言をして菅野に殴られ、四月十二日の喜界島上空の特攻直掩で負傷した菅野の手術を麻酔無しでする、という役柄である。
実際に菅野直大尉は軍医少佐を殴り倒しているそうだが、それは大村基地でのことで、それも酒の席でささいなことが原因と菅野の部下だった堀兵曹長が書いている。麻酔無しの手術はセブ島で負傷した時に見栄を張って「麻酔はいらん」と言い、しかし手術が始まると「痛い、ちょっと待ってくれ、やれというまで待ってくれ」と言い、実際に気合いを入れてから麻酔無しの手術に臨んだ、というものらしい。四月十二日の戦闘では、菅野中隊第二小隊隊長松村大尉が空戦に深入りして菅野の引き上げ命令に従わずに帰還後に菅野に大目玉を喰った、という話が残っている。菅野は撃墜にはやって無理な空戦をすることをかなり嫌っていたようで、できる限り生き残る、というのが軍人の任務と考えていた節がある。
あと梨山中佐というのも架空の人物である。志賀淑雄少佐が特攻反対の意見を述べたのも大村基地でのことで、これは志賀少佐自身のインタビュー記事にもある。従って吉田と梨山がからむシーンは基本的に架空の出来事になる。
関行男大尉が最後に言い残した言葉は報道班員が聞いた通りである。「家族のため」特攻に行く、というのは最初の特攻隊隊長だった関大尉が自分に言い聞かせるために使った論理であり、しかも関大尉自身は納得していないのは、彼の言葉を見れば容易に看取できるだろう。ドラマに出てくる特攻隊員は関大尉よりも物分かりがいいようだ。しかし私は関大尉の方に真実味を感じる。特攻に行かせた側は例えば「紫電改のタカ」のように「家族のために」という言葉ででも納得して死んでくれれば罪悪感も薄らぐというものだ。しかし現実には関大尉は納得しては死ななかった。他の特攻隊にもそういうケースは多かったはずだ。
文中にも出てきた角田和男少尉の回想も鮮烈だ。
角田少尉が菅野大尉に言われて特攻隊に加わった夜のことだろう。菅野大尉から一人を特攻隊として残すように言われ、自分が残ることにした角田少尉だったが、結局角田少尉のようなベテランを特攻に回すことは意外としなかったらしい。角田少尉も結局直掩に回されたのだが、その晩、角田少尉は飛行長の音頭取りで宴会をする司令部になじめず、士官室を抜け出し、搭乗員室に向かう。そこで角田少尉が見た光景は異常なものだった。

暗闇の坂道を山裾の搭乗室に向かう。搭乗員室とは名ばかりで、道端の椰子の葉で葺いた掘っ建て小屋、土間に板を並べただけのものである。その入口に近づいた時、突然、右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた。 
「ここは士官の来るところではありません」と押し返してくる。
 私はその声に聞き覚えがあってむっとした、それは二○三空の倉田上飛曹であった。厚木の教員時代、同じ分隊におり、同じラバウル帰りの長野、山本の同年兵である。三人組で私の下宿へ押しかけて来ては、妻の酌で飲んでいった奴である。
「何だ、倉田じゃないか、どうしたんだ」
私の声に彼も気がついた。
「あッ分隊士ですか、分隊士なら良いんですが、士官がみえたら止めるように頼まれ、番をしていたものですから」
不審に思ってわけを聞いてみると、
「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです。特に飛行長には見られたくないので、交代で立番をしているのです。飛行長がみえた時は中の者にすぐ知らせるのです。しかし、分隊士なら宜しいですから見て下さい」
 というのでドアを開けた。そこは電灯もなく、缶詰の空缶に廃油を灯したのが三、四個置かれた薄暗い部屋の正面にポツンポツンと十人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。そして、じろっとこちらを見つめた眼がぎらぎらと異様に輝いている。左隅には十数人が一団となって、ひそひそと何か話をしている。ああ、ここにも私たちの寝床はない、と直感して扉を閉めた。
「これはどうしているのだ」
倉田兵曹に聞いたところ、彼の説明では、
「正面にあぐらをかいているのは特攻隊員で、隅にかたまっているのは普通の搭乗員です」
という。私は早口に質問した。
「どうしたんだ、今日、俺たちと一緒に行った搭乗員たちは、みんな明るく喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」
「そうなんです。だが、彼らも昨夜はやはりこうしていました。眼をつむるのが恐いんだそうです。色々と雑念が出て来て、それでほんとうに眠くなるまでああして起きているのです。毎晩十二時頃には寝ますので、一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは、ああしてみな起きて待っているのです。しかし、こんな姿は士官には見せたくない、特に飛行長には、絶対にみんな喜んで死んで行く、と信じていてもらいたいのです。だから、朝起きて飛行場に行く時は、みんな明るく朗らかになりますよ。今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」
 私は驚いた。今日のあの悠々たる態度、喜々とした笑顔、あれが作られたものであったとすれば、彼らはいかなる名優にも劣らない。しかし、また、昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない。何でこのようにまでして飛行長に義理立てするのか。
 割り切れない気持ちを残して、私たちはまたトボトボと坂道を明るい士官室へと引き返して行った。
『二〇一空戦記』

次回はその「飛行長」が描き出した菅野直像と、菅野直の実像の乖離を検討する。