昭和という時代

昭和と一言で言っても昭和20年を境にして大きく変質する。すなわち大日本帝国憲法時代と日本国憲法時代である。そして昭和単独で見るならば、20年間であった大日本帝国憲法下の昭和よりも、40年以上を数えた日本国憲法下の時代の方が長い。一口に「昭和」と言っても、実際には大日本帝国憲法下の「昭和」なのか、それとも日本国憲法下の「昭和」なのかをはっきりさせる必要がある。
現在「昭和レトロ」などと言われている時代は概ね昭和30年代から昭和40年代であろう。少なくとも鉄道模型の世界で流行している「昭和」の鉄道は30年代乃至40年代が主流である。これはモータリゼーションが進む少し前であり、鉄道の最盛期であったことと関係があるだろう。しかしもう一つ、昭和30年代乃至40年代がもたらす郷愁とは何なのか、少し考察してみたい。
鍋倉紀子氏が興味深い考察を行なっている。宝塚ファミリーランドとディズニーランドの比較考察である。それを通じて阪急モデルの崩壊を検討している。氏によれば、宝塚ファミリーランドに代表される「遊園地」は一人で行っても面白くないのだという。ホスト役の父、サポート役の母、そしてその「サービス」を受ける子ども、という図式がないと「遊園地」は面白くないのだそうだ。確かにそうなのだろう。あそこは「家族団欒」の場なのだ。楽しかった思い出は基本的には家族との行楽の思い出として昇華しているのである。メリーゴーラウンドや飛行機ぐるぐる(飛行塔というんだっけ?)がそんなに面白いわけがないのだ。ちなみに私はヘタレなのでジェットコースターに乗る気は無い。家族で一日遊んだ、という記憶となって残っている。両親は子どもの楽しむ顔が一番の楽しみだったろう。どう考えても「遊園地」にあるアトラクションは大人を満足させるものではない。
ディズニーランドはそうではない、そうだ。私は日本のディズニーランドには行ったことがないので何とも言えないのだが、ディズニーランドはディズニーランドがホストとして来た客をもてなしてくれる。USJもそうなのだろう。だから大人だけでいっても楽しい。子どもと一緒に楽しみたいという「大人子ども」が増えている現状が、ディズニーランド隆盛、「遊園地」没落の一つの原因、ということである。そしてそれは阪急が提示した「核家族」の崩壊でもあったのだそうだ。
阪急が提示したモデル、というのはやや意外な感じがされるかも知れないが、戦後民主主義の一つの生活類型は阪急グループの作り出したモデルであることは、マンション問題を考察したサイトで拝読したことがあり、私にはあっさりと受け入れることが出来たのだ。そこのサイト(どこかは失念した)では本来駅は町外れにあるものであり、駅までに何らかの交通機関で来る、というものであったはずだ、という。阪急は鉄道敷設とともに住宅開発を進めた、のだそうだ。
なるほど、阪急の原形である箕面有馬電気軌道の形を見れば、そのモデルはすでに現れている。起点の梅田にはデパートを、終点の宝塚と箕面には娯楽施設を、そしてその中間には住宅街を、それぞれ配置する。そこに生活する人々のモデルは次のようなものだ。
お父さんは都心の会社に阪急電車で通勤。駅から家までは徒歩圏内。住宅街が出来れば学校もできる。子供たちは住宅街にある学校に通う。場合によっては阪急に乗って通学もするだろう。週末には電車にのってリゾート。デパートで買い物、食事もよし、自然に触れあうもよし、遊園地に行くのもよし。生活の中にいつでも阪急の姿があった。民鉄はこぞって阪急モデルを採用した。関西では競争関係にある国鉄に完勝した。私鉄王国と呼ばれた。それは阪急モデルが生活の中に根付いていたからだ。しかし現在、阪急モデルは行き詰まった。マンションは郊外ではなく都心に作られる。都心の方が大人にとっての楽しみが多いからだ。阪急モデルでは大人は大人、子どもは子どもであることを求められていた。しかし今、大人たちは子どもと一緒になって、大人の楽しみを楽しみたい。居酒屋に子どもを連れてくる。子どもも楽しめる居酒屋が現在求められている。そこでは従来のファミリーレストランとは異なる風景が現出している。
戦後民主主義個人主義だった、というのは事実誤認だ、というkechak氏の提言2007-02-19に刺激されて少し考えてみた。もう少しいろいろ考えたい。