アイヌ史

「日本史」という講義でアイヌ史をやると「わからない」という声があった。こういう声は初耳だ。今までならば「偏向している」という苦情になるはずだった。確かに「偏向している」だろう。アイヌモシリへの侵略の歴史をやっているわけだから。当然「みんななかよくやってきた」という歴史像を相対化しているわけだから。私のそういう歴史像に対し、「偏向している」という批判はある意味建設的な批判である。和人によるアイヌ侵略の歴史を前提にした上で、和人側のアイヌに対する平和的な関係構築の歴史を見ることは意味のあることだ。
実際松前藩アイヌの生活環境を守るためにさまざまな政策を打ち出していたことは特筆されていい。しかし松前藩財政破綻とともにアイヌモシリ(アイヌの大地)は切り売りされていったのだ。和人のアイヌに対する抑圧一辺倒の歴史像では、松前藩と幕領化以降の歴史の違いは見えてこない。具体的に言えば、アイヌの自主性がまだ尊重されていた「商場知行制下の場所請負制」とアイヌの自主性は失われ、「日本」の辺境として位置づけられ、「中央」への原料供給地として収奪されつくした「蝦夷地勤番制下の場所請負制」の差異はわからないだろう。
さらに今検討を始めているのがアイヌを収奪した張本人とされる場所請負制商人の事情である。飛騨屋久兵衛の検討である。従来アイヌ史では、クナシリメナシの戦いの原因となった悪らつな商人というイメージの強い悪役だが、故郷の下呂の発展に尽くした功労者でもある。この両者の顔を両立させる歴史記述が必要なのだ。
こういう問題ははすぐれて「日本史」の問題なのである。「日本史」という講義でアイヌ史をやる意味がわからない、というのは、つまりアイヌは日本ではない、日本は大和民族が支配してきた同質的な社会であるという認識を「事実」だとして支持するのだろう。これは端的に言って信仰でしかない。これまで築き上げられてきた学的体系を一顧だにもせず、自分の信念に閉じこもることをカルトというのだ。
最近目に付くのが「難しすぎる」という意見。難しいならば調べるべきなのだ。質問すればいい。かつて講義後30分間私を拘束して質問攻めにした学生がいた。こういうのは大歓迎だ。こちらも刺激される。参考文献を聞いてくる学生もいる。こちらが提示した参考文献ではあきたらずに他の参考文献はないか、と聞いてくるのだ。これもうれしい。自分で勝手にレポートを書いて「批評してください」という学生もいる。厚かましいにもほどがあるが、それくらい厚かましくしてもいいのだ。私はさらに課題を出してやった。参考文献も提示してやった。学生はよろこんで帰っていった。
これが大学での講義ではないのか。自分では何も調べず、「難しい、レベルを下げろ」というのはおかしいだろう。無知に居直ってはいけない。
これが一般教養であればまだ仕方がない、と思う。大学にそこまで期待できないのはわかっている。しかしこの講義は教職科目である。こういう人が教壇に立つのかと思うと背筋が凍る。