宮内庁に就職したいという院生

私は後輩の大学院生と話していた。件の自衛隊を便利屋か戦隊ものと勘違いしていたヤツである。立派に勉強し、大学院に入ってきた。未来像を何となく彼が語り始めた。「ぼく、宮内庁書陵部に行きたいんですよ」。私は一言「ムリ!!!」
我々のいる大学は宮内庁に全く人脈がない。もちろん文部科学省にもない。学会は人脈がものを言う。人脈のないところに就職することもないではないが、それは公募にあたった場合だ。宮内庁や文部省のような場合は多分我々が在籍していた大学の関係者はとらないのではないかな。思想も偏っているし。
そもそも今彼は「○○先生から『ドイツイデオロギー』を読め、と言われたんですよ。どの本がいいですかね」と質問していたはずだ。どう考えても宮内庁書陵部や文部省の教科書検定官に『ドイツイデオロギー』を読み込んだ院生はとらないと思う。大学院選びを間違っていないか、と私は思ったものだ。
ちなみに『ドイツイデオロギー』に関しては岩波文庫のものはだめで、合同新書の花崎皐平氏の編纂したものがいい、と回答しておいた。今ならば河手書房新社の広松渉版を推薦するが、悲しいかな、当時はなかった。彼は「ありがとうございます」と『ドイツイデオロギー』を買いに行ったはずだ。いや、花崎版『ドイツイデオロギー』は訳がわからない。彼も悩んだはずだ。「どうして○○先生はこれを読め、と言ったのだろう」と。
まず○○先生が『ドイツイデオロギー』を読め、と言われたのは、当時その先生がマルクス主義を読み直そうとしていたからだ。社会主義の崩壊でマルクス葬送論が論壇を覆っていたころ、持ち前の反骨心でマルクス主義の再検討に取りかかっていた○○先生は学生に「マルクスを読め」と言いまくっていた。それを真に受けた彼はまじめにマルクスを読もうとしたが、今までマルクスのことについては何も知らなかったので、マルクスに比較的詳しそうな私に話を持ってきたのだろう。ただ私もほとんどマルクスを呼んでいない世代だったので、『ドイツイデオロギー』はどれを読むべきか、ということだけしかアドバイスできなかったが。
ちなみに岩波文庫の『ドイツイデオロギー』がよくないのは、スターリン体制下で編纂された「アドラツキー版」と呼ばれるものを底本にしているからだ。スターリン主義的に編纂され、「捏造」すらある、と言われている。これを読んでもスターリン体制下のマルクス主義しかわからない、ということで、『ドイツイデオロギー』を読む意義がないのだ*1。ただ花崎版が底本にした「リャザノフ版」と呼ばれるものは、まさに断片的なメモで、結局何が言いたいのか不明である。それらを書誌学的に検討し、『ドイツイデオロギー』が総体として何を言いたかったのか、ということを明らかにしたのが広松版の『ドイツイデオロギー』というわけである。
○○先生が『ドイツイデオロギー』を推薦したのは、おそらくは当時批判されていた「マルクス主義」が「レーニン主義」でしかないことを理解して欲しいと、初期マルクスの思想を紹介したかったからではないだろうか。
まあ、そういう大学院の出身者を文部省が検定官に採用することはおそらくないわけで、宮内庁も採用は間違ってもしないだろう。今ではずいぶん体制的になっているが、それでも過去のイメージもあるし、なによりも人脈ができていない。

*1:現在は「新編輯」となって広松渉編訳となっているので、今ならば岩波文庫判がお勧め。