コメント欄における「荒らし」について

ネット右翼」という言い方は問題を拡散させる、と私は思う。ネット上で右翼的な発言を行う人=「ネット右翼」ではない。「ネット右翼」という用語は、どうもネット上で「荒らし」行為を行う輩のことを指すようである。ネット上では右翼的言辞が目に付くだけに、「荒らし」行為にも右翼的な言辞が目に付くので、「ネット右翼」という言葉が出てきたように思われる。しかし「荒らし」行為を行うのは「右翼」的な人物だけではない。「左翼」的な人でも「荒らし」行為は行うのである。だから「ネット右翼」という言葉は使う場合には定義を厳密にする必要がある。私自身はここまで「手垢」がついた言葉はできる限り使いたくない。したがって主張が「右翼」「左翼」「非政治的」を問わず「荒らし」という用語を使うことにする。他にも「ネットイナゴ」「ネットゴキ」「ネット珍走団」という用語は有効だろう。ただブクマでも指摘されていたように「右と左を鏡で移せばほぼ重なるかと言われれば」そうではない。おのずから差異は出てくる。「荒らし」行為の右翼と左翼の違いを検討するのも有意義だろう。ただ、ここでは当面「荒らし」行為のパターン分析を行いたい。
「荒らし」にも二種類ある。自然発生的に生起する「荒らし」と、「工作員」の場合である。この両者は弁別しなければならない。自然発生的な「荒らし」は非常に孤独でやり場のない憤懣をぶつける相手を日夜探して、ターゲットを見つけ、そこに書き込む、という形になる。「無視」、これがおそらく有効な対処法であろう。一方意図的かつ組織的に行われる「荒らし」というものがある。ポイントは、彼らの視線がどこを向いているか、である。自然発生的な「荒らし」の場合は、対象はあくまでも管理人である。しかし組織的な「荒らし」はギャラリーを意識している。つまり第三者へのプロパガンダ、あるいは自分の属するコミュニティへの忠誠の証明なのである。彼らの特徴はとかく印象操作をしてくることにある。事情を知らない第三者に「荒らし」行為を「義憤に駆られた行動」と印象づけようとするのである。彼らは基本的に管理者が何を言っているかには関心がない。揚げ足を取る、あらを探す、その部分だけを取り上げる。些細な言葉遣いにやたらにこだわり、訂正や謝罪を申し入れるのは、印象操作の基本である。
スタートは真面目な意見交換者の形をとって現れる。しかし管理人のささいな「落ち度」を徹底的に突く。その場に合わせて別人を装うことも多いようだ。私の知人のブログでもそういう人間が現れたのを見たことがある。一方で例えばaという名前で挑発的な言辞を吐いて雰囲気を荒んだものにし、もう一方で例えばbという名前でフォローしながら微妙に印象操作をする。「aさんも言いすぎているけれども、管理人のこの点が原因ではないか」とか。もっとも私の見た例ではIPが同じだったので、速攻バレた。アクセス禁止を食らったのは言うまでもないが、その「荒らし」が元来常連だった掲示板からも出入り禁止となった。なりすましは結構見かける手法だが、同時にバレると副作用も大きい。思想云々よりもなりすまし、というインチキを嫌う風潮はあるようだ。
しかしIPを変えずになりすます、と言うのはあまりにも幼稚で、組織的な「荒らし」の場合、IPアドレスは変えているだろう。さらには実際に複数でアクセスしているケースもあり得る。もちろん裏で役割分担も決めていたりするのだろう。
役割分担はけんか腰の人間と穏やかで中立を装った人間の組み合わせが基本。これが一番効果的なのだ。だからコメント欄にこの両者が入れ替わり立ち替わり現れたら、組織的な「荒らし」が行われている、と考えてよいだろう。けんか腰の人間を数人出しておいて、ほどよく荒れたら中立を装う人の登場。ここで中立を装う人が譲歩を求めてくる。そこで落ちなければあとはその繰り返し。ターゲットが疲労してくるのを待っている。下品な物言いで挑発してくる者、居丈高にしかりつける者、ねちねちと揚げ足を取る者、他にも色々と偏執狂を装った人物が登場し、疲れたところにいかにもおためごかしな人物が登場してくる。彼らの目的はおそらく「中立を装う者」の言葉に隠れている。
ただ最近は掲示板ではなく、ブログで意見表明を行うケースが増えている。以上のやり方はおそらく掲示板潰しに効果がある方法なのだ。掲示板は第三者の活発な意見交換がなければ成立しない。従って第三者に働き掛ける「世論誘導」型の「荒らし」が有効だったのだ。しかしブログはそうではない。悪く言えば自己満足で十分なのだ。都合の悪いコメントは速攻削除で何ら問題はない。ブログを攻撃することの限界性に気付いているのは他ならない「荒らし」の方なのであろう。コメントを削除したり、トラックバックを拒否したりすると決まって「言論封殺だ」という、とんちんかんな批判を始める。あるいはブログのエントリは掲示板のスレ立てと同じだ、という無茶な主張をする。これらはブログを掲示板と同様のものであると、錯覚しているのか、あるいはそのように印象づけようとしているのか、である。前者であれば、ブログを運営したことがなく、ブログに関して無知なのだろう。私が多くの場合後者であると思っている。まさか組織的に「荒らし」をしようとする人物が、ブログと掲示板の差異を知らないとは思えないからだ。後者であれば、彼らは「荒らし」による「世論誘導」がブログでは通じにくいことを彼ら自身が気付いていて、焦っているのであろう。だからこそことさらに掲示板との差異をないかのように言い立てるのである。それを如実に表しているのが「あなたのブログであるにも拘らず、批判者の方が圧倒的に多い事実」という主張である。ブログのコメント欄に書き込まれる内容が、即そのブログを取り巻く空気とは言えないことは、ブログを運営していれば気付くであろう。ブログを読んでも、大多数の人間は書き込まない。書き込むのは一部の人だけであり、書き込みを以てブログそのものを取り巻く空気と同一とはどう考えても受け取れない。しかしこの主張はコメント欄の書き込みだけで「批判者の方が圧倒的に多い」と主張する。この発言は掲示板に対しては有効なのだ。掲示板は書き込まれたことが、そのまま掲示板を取り巻く空気である。書き込まれたことで判定される。ブログはそうではない。書き込まれない読者の声というものがある。ブログにはブログつながりの関係性がある。それがブログの特色なのだ。ブログには一定のTrue Believerが存在する。いくら暴れてもTrue Believerを転向させることはできない。そのことに対する焦りが件の発言に表れているような気がしてならない。
そうしたことを踏まえたうえで、ブログのコメント欄における「荒らし」への効果的な対策として私が考えたのが「黒木ルール」の適用。「匿名による批判を禁止する」。気に入らないコメントは削除。それで引かれても気にしない。うっとうしい来訪者はアクセス禁止。それで「言論封殺」と言われようが、「自分でブログ作れ」と開き直る。最強の開き直りは「嫌なら見に来るな」であろう。ここは私のブログだからどんなローカルルールを適用しようが私の自由、と開き直る。言論系のブログだと「いい人」とはどうせ思われないのだ。引かれてなんぼ、である。私はそこの覚悟が足りないんだな。だから「言論」ではなく「言論ごっこ」または「言論もどき」ブログ(笑)。