「論文」と「小論文」の定義−jintrick氏の「書きたいことが三つあった」に寄せて−

jintrick氏より言及をいただいた(2007-06-07)。言及に感謝したい。拝読していて、おそらく定義のズレがあるのだろうと思ったので、ここで補足しておく。
まず引用から。

1 論文の中で「私は違う」などと書く天変地異レベルのアホは見たことがないのだが、小論文では違うらしい。
2 その義理の祖母の話を「except me」の実例とするには論述が不足しており、義理の祖母を単に罵るにとどまっている。
3 批判することと罵ることは違う

まず「論文」と「小論文」の違い。
氏が言及していらっしゃる「論文」とは何のことかはこれだけではわからないが、私の理解では「論文」とは、学術論文のことであり、先行の学説を踏まえたうえで、先行研究史に何らかの新知見をもたらし得るものである。その時に実証性も担保されたものを「論文」と呼称する、と考えていた。もう少し広義にとらえても、例えば実証性には未完成なところがあるが、取りあえず仮説を提示する「研究ノート」を含めてもいいだろう。学生の卒業論文なども含めて基本的に「論文」というのは、学問上の生産物であり、それゆえその場で作れるものではない。長期間にわたる調査、研究が必要である。
一方「小論文」というのは私は受験科目以外には見たことがなかったので、そのつもりで使用していた。もし他に「小論文」があり、jintrick氏が受験科目としての「小論文」ではないものを念頭においていらっしゃったのであれば、以下の記述は無意味である。受験科目としての「小論文」は「作文」とは少し異なる、とは言っても、「論文」と比べると、むしろ「作文」に近い。「作文」とは「作文力」を見る科目であり、基礎的な文章力を試すものである。一応の筋を持った文で、「てにをは」を誤らずに書けるか、ということを主としてチェックする科目である。一方「小論文」という科目は基本的に何らかの資料を付して、それを読み取ったうえで、その資料への論評をする能力を問うものであり、問われているのは、今流行の言葉で言えば「リテラシー」である。従って「小論文」は基本的にその場で材料などを揃えなければならず、どうしても自分及びその周囲になる。従って「私はちがう」というレベルのものが出現し得るのだ。
以上のような「論文」と「小論文」の定義に従えば、「論文」で「論文の中で「私は違う」などと書く」というのはそもそもあり得ないのは全く同感であり、それはすでに「論文」ではあり得ない。しかし入試科目の一つである「小論文」は使えるソースも、時間も極めて限定されているゆえに、「私」を主題にして論を立てなければならない。例えば「読書と私」という題目はまず「論文」たりえない*1が、「小論文」ならばあり得る。或いは「真の自己とは」というテーマで論文を書くのであれば、「自己」ということに関してそれまで出された哲学的な諸問題を踏まえたうえで、「自己」とは何か、を考察しなければならない。ここでは「私」の個人的体験の出てくる幕は無い。ここで必要なものは「哲学史上における『自己』論」であり、主要には実存主義哲学の再検討から入らなければならない。しかし「小論文」では自分自身の体験をもとにして「自己」を見つめ直した体験などを書かざるを得ないだろう。
つまり学術論文ではそもそも「私はちがう」とかそういうレベルのものが出ないのは、当然すぎて、私の「論文」と「小論文」の定義に従えば、そもそもjintrick氏の提示した1の論点は、私には意味がよくわからない、ということになる。おそらく氏の定義は私の定義とは大幅にちがっているのだろうと思われるのだ。どのような定義の上で1の論点が提出されているのか、がわからないので、これ以上のことは言えない。
2の論点について。
おそらくこれも考え方の違いだろうと思われる。「論述が不足している」とのことであるが、これはどういうことなのか、私には飲み込めない。「不足」というのが、量的なものなのか、質的なものなのか、そこがわからないのだ。もし量的な問題で、あの話だけでは証明にならない、ということであれば、私はモデルとしてあの話を提示しているのであって、データとして提出しているのではない、としかいいようがない。それとも質的な問題、つまり「私はちがう」という話の例として不適切、ということなのだろうか。それとも単に説明不足ということなのだろうか。
3について。
罵ることと批判することとはちがう、というのもこれだけでは何が言いたいのか、伝わらない。リンク先の話Latest topics > Except me - outsider reflexは、私の話とは少し食い違っている。私は人を批判する時に、自分がその対象に当然入り得るのであって、そのことを考えたうえで批判するべきは批判するべきだ、という話なのだが、リンク先は自分が批判対象に含まれないような批判をせよ、と私の論を読み込んでいる。ここでぴろ氏は「何かを批判する時、その批判対象に自分自身が含まれてるのって愚かしいねという話。」と私の話を読み込んでいるのだが、そしてそう読み込まれたのは私の書き方に問題があるのだろうが、私自身はそういうつもりで書いていたのではなく、むしろ主張は「「アイツらはダメだね。俺もだけどね。俺も含めてみんなダメだね。」みたいな。」というのに近いかも知れない。少なくとも「自分に関係ない世界のことを批判する」というのは、「観念的な建前論」にしかならないので、受験の「小論文」ではまずダメだ。そしてリンク先の文章と「批判と罵倒はちがう」というのが私の中ではつながらないので、このリンクも含めて全体が私には今一つ意味が飲み込めない。
批判と罵倒とはちがうのは当然なのだが、jintrick氏の主張は「義理の祖母を批判したつもりだろうが、罵倒にしかなっていない」という批判なのか、それともちがうのか。もしちがうとすれば、私の論点に何を付け加えたいのかが私にはよくわからない。もし義理の祖母の話が「罵倒」でしかなく、批判ではない、ということであれば、そうかもしれない、としか言い様がない。私はあれをあくまでも分かりやすいモデルとして提示したのであって、それを使って何かを論証しようとはしていないわけであるから、それが仮に「罵倒」だとして、論旨にどのような影響があるのかが私には読み取れない、としかいいようがない。
以上、「書きたいことが三つあった」と、せっかく言及いただいたのに、甚だ蕪雑な回答に終始してしまった。原因は偏に私の読解能力のなさにあるのだが、一応氏の言及のポイントとなった私自身の「論文」と「小論文」の定義について、私なりの定義を提出することで責をふさぎたい。氏のご海容を請う次第である。そして私の文章を見直す契機を与えてくださったjintrick氏とぴろ氏には感謝したい。

*1:もちろんロジェ・シャルチェの『書物から読書へ』などの「読書」の成立という認識論と「私」という認識論の融合としての哲学の論文ならばあり得るが。