「荒らし」の手法

私が実際に見た「組織的な荒らし」の手法から「荒らし」がどのように入ってくるのか、を検討していきたい。私が実際に検討の材料としたのは3例。このうち一つは「組織的な荒らし」の可能性は極めて高いものの、確証がなく、しかもその「荒らし」の所属していたコミュニティの管理人と常連が非常に高い倫理観を持っていたので、ほどなく収束した例。あとの二つはいとも簡単に「組織的」であることの証明がなされていた例。ちなみに思想的立場は「左」によるのが1例。「右」が2例。
共通点から述べていこう。これら3例に共通していたのは、次のようなパターン。まず最初にやってくるのが真面目な意見交換者の顔をしてやってくる。しかし済んだ話を蒸し返したり、長々とピント外れの質問をしたりする。これが「荒らし」の素顔なのだ。ここで警戒を怠ると、管理人や常連の些細な落ち度を見つけた瞬間「荒らし」は本性を現し、管理人を批判し始める。一見「荒らし」に見えない人が少しくらい暴言を吐いても対処は難しい。管理人がそれに感情的に対応すると、どこからか助っ人が登場。二人目の助っ人は「義憤に駆られた」少し「粗暴な人」という設定。延々と罵倒を続ける。些細な揚げ足を取り、延々と謝罪を要求する。本筋とは関係のない問題に引きずり込もうとするのだ。
1例ではそのあと中立を装うコメント者が登場してきた。あとは恫喝を行う人物を増強し、疲れた頃を見計らって中立を装う人が妥協案を提示する、というものであった。あとの二例はそれが見当たらない。考えられる理由としては、一つの例では速攻ばれてしまい、アク禁を食らった、という事情がある。IPアドレスを変えずに別人になりすましたのだ。アクセス解析は稚拙な演出には効果的だ。もう一つの例では現在も進行中の事案で、少し前に「義憤に駆られた粗暴な人」が暴れている状態なので、もう少ししたら出てくるかも知れないし、出てこないかも知れない。
ブログの場合、対処が遅れてもアク禁やコメント削除で対処できるが、掲示板ではこういう「荒らし」が出るとかなり厳しいように思う。掲示板は多様な人が自由闊達に意見を交換できる、極めて有効なメディアだが、それだけに目をつけられやすく、つぶされやすいようにも思われる。掲示板ではそこでのテーマによっては、もはや自由闊達な議論は覚悟が必要な状況になりつつあるように思われる。特に掲示板では延々と同じ質問を繰り返すことによるノイズの増加によって、本論を見失わせる効果も期待できる。ブログではエントリとコメントは完全に別れているので、スパム書き込みで本筋が埋もれることはないが、すべての記事が同列に並ぶ掲示板では、本筋は容易に見渡せなくなる。極端な話、一人の悪意ある書き込み者によって掲示板が崩壊することは容易に起こり得るのだ。
対処策の一つとして挙げられていた黒木ルール(「匿名」による批判の禁止ルールについて)を再度挙げておこう。

・「匿名」であるか否かの判定は実名や電子メール・アドレスを公開しているか否かで行なわれるのではなく、その人が自分自身の考え方や趣味・嗜好に関してどれだけの情報を公開しているか否かで行なわれる。
・論争に参加する人は、馬鹿なことを言ってしまったときに恥をかけるだけ十分に詳しく自己紹介を行なわなければいけない。
・「匿名」による批判は禁止するが、「匿名」による穏当な発言は禁止しないし、「匿名」による有益な情報提供は当然歓迎する。
・最終的な判定は掲示板の管理者の主観に委ねられている。
・管理者権限で例外が認められている。

黒木玄氏は匿名を平等に扱わない理由を次のように述べている。

まず、「匿名」を相手にしないという方針にはコミュニケーションのコストを減らすという面において大きなメリットがあります。あらゆる場所において「匿名」の発言を他と平等に扱うべきだという考え方の中にはコミュニケーションに関わる巨大なコストを不当に低く見積るという誤りが隠されています。だから、「匿名」の発言をも平等に扱うべきだというルールは、様々な種類の「匿名」排除ルールと同様に、あらゆる場所に適用して構わないルールではありません。

また、「匿名」による発言とそうでない発言を平等に扱うことは、「匿名」でない発言者にとって不平等な状況を作り出します。なぜなら、「匿名」の発言者は失敗しても失うものがほとんどないので、普段だったらできないような暴言を吐くことが自由にできるからです。「匿名」の安全圈に隠れていれば、そのような暴言によって受ける被害は大したことがありません。しかし、自分自身の考え方や趣味・嗜好を表現するためにかなりのコストをかけている人 (すなわち「匿名」でない人) はそうではありません。しかも、受けた害と同等の害を「匿名」の暴言者に与えることによって反撃することもできない。このような理由によって、「匿名」による批判をも平等に扱うことを義務付けられた場所における論争に「匿名」でない人は参加し難くなります。

だから、特に「匿名」でない人たちが論争に参加し易い状況を作り出したいのであれば「匿名」による批判を禁止した方が良いのです。もちろん、論争の場から「匿名」でない人たちを排除もしくは遠ざけても構わないのであれば「匿名」による批判をも平等に扱うことを推奨しても構わないでしょう。

さらに黒木氏は「議論は、誰が発言したかではなく、発言の内容だけに基いて行なわれるべきである」という「内容至上主義」に関して、次のように述べる。

発言内容の字面だけを見るなら、確かに発言者が「匿名」であるか否かは関係ないでしょう。しかし、議論で必要なのは発言内容の解釈です。発言内容の解釈の仕方やコストには発言者が「匿名」であるか否かが大いに関わってきます。

まず、あらゆる事柄について詳細に説明し、その全て読んで理解してもらうことは現実的には不可能なので、発言の内容には常に曖昧さがつきまといます。細かいニュアンスの理解が重要な場合だってあるでしょう。そのようなときに、発言者と発言内容に関して他に参照できる大量の情報が全くないとすれば、発言の曖昧な点やニュアンスを正しく解釈することは難しくなります。

もちろん、発言者は、他の情報に頼らなくても、内容が理解できるようにわかり易く文章を書くべきでしょう。しかし、「匿名」のままそうした場合には、努力のすえに結果的に曖昧になってしまった部分 (そのような部分は大抵の場合残る) の解釈に関して、「匿名」でなければ不必要であったかもしれない負担を読者に課すことになります。これは不親切です。

「匿名」をどう扱うかとは無関係に、議論におけるコミュニケーションのコストを低く見積るのは誤りです。自分が何を言いたいのかを相手に伝え、相手が何を言いたいかを理解するのは、おそろしく大変なことなのです。 (それが簡単だと思っている人は深い議論をしようと思ったことがないに違いない。)

「匿名」であるか否かは発言の内容には全く関係ないという考え方は、コミュニケーションのコストを不当に低く見積ることによって、有益で深い議論への道を閉ざすことに繋がっているのです。 (もちろん、有益で深い議論をすることが目的でなければこの欠点を無視して構わないかもしれませんが。)

ここで「禁止」の内容だが、実際アク禁とかやっても難しい。実際の運用においては津村ルールの適用を視野に入れねばならないだろう。津村ルールとは「匿名のかたへの批判・反論はしません」というもの(匿名のかたへの批判・反論はしません: 技術系サラリーマンの交差点)である。津村氏はこの理由について次のように述べる。

自分自身の弱さから、匿名の人と対等に議論を続けられなくなることです。端的に言えば、自分に非があって匿名の人に追い詰められたような場合です。そんな時にも「石ころ扱い」という道に逃げ込まず、「匿名のくせに」という態度にならず、対等の立場を維持できるのか。残念ながら、自分にそれほどの度量があるとは思いません。

そこで氏は

私にとって「匿名の人でも人格として尊重する」は「匿名の人の作り出す豊かなものを評価するが、真剣な議論はしない」という姿勢になります。
具体的には、匿名の人に対しては批判をしません。また、匿名の人が私を批判した場合、その内容が即座に受け入れられないものであっても、反論はしないこととします。

という「匿名の者は議論対象と見なさない」という津村ルールを作り出す。津村ルールにおいては「匿名」は文字通りの匿名である。実際には実名を出すのは難しいことが多いので、一つの折衷策として提出されたのがekken氏の「黒木ルールに「匿名発言は無視」という津村ルールをおりこむと、ネガティブコメントに対するローカルルールとして充分に成立する」という見解(自覚のない荒らしにとって「黒木ルール」は全く非力です:ekken)である。これは大変有効であると私には思える。つまり「匿名の批判は無視する」というローカルルールを定めるのだ。
一方でekken氏の「相手に罵声を浴びせる事を「批判」と考え、それに対する返事が書かれない事を「勝利」と考えている非「匿名者」に対しては、黒木ルールは全く無意味であるといって良い」というのも事実である。「書き込んだコメントによって自分が恥をかくなんて事は考えていない」人を相手にするのは難しい。
さらに言えば、そういうローカルルールが自由闊達な議論を妨げる、という心配は当然あり得るが、それは黒木氏の指摘も事実であり、匿名の批判を排除しなければ、非匿名の論者は近づきがたい、ということになり、基本的には一長一短であると思われる。私は匿名での批判の制限というのは、ネット上の公正な議論を担保するうえで重要な観点であると考え、自分のブログのローカルルールでは、基本的にこれらのルールを適用したいと思っているのだ。コメント欄をめぐるせめぎあいが現に発生している以上、これらの適用も検討の余地はあるのではないだろうか。