久間章生前防衛大臣の「失言」考

この問題に関しては様々な見方ができるだろう。私が今回試みたいのは、できる限り久間氏の発言を正確に把握し、久間氏の真意をつかむところにある。その上での論及でなければ、議論は所詮水掛け論になる。そのために必要な要件は二つ。まずは自分の思想的立ち位置を把握していることだ。自分の政治的偏向を自覚していないと、正確に把握することなど出来ない。自分の政治的立ち位置から来るバイアスを可能な限り排除するように意識しなければならないからだ。私自身について言えば、私の思想的立ち位置はもちろん左翼であることは論をまたないが、共産党的なマルクス・レーニン主義には明確に反対であり、マルクス主義であることをあまり意識していなかったが、近年はアイヌ史の研究に関与し始めたことから、自然に従属理論的な立場に傾斜している。憲法に関しては九条堅持、非核三原則の堅持、アメリカの核兵器使用に関しても非難する、という姿勢である。このような私が久間氏を批判しても、すでに久間氏に対する批判は汗牛充棟もただならぬほどに存在しており、私がここで屋上屋を重ねる議論を展開したところで代わり映えのする議論が出せるとも思えない。むしろ私の立ち位置を今のように表明したうえで、私なりに久間氏の「真意」を理解しようと務めた。基本的には私は久間氏の発言には全面的に否定的な感情しかない。従って私が心がけるべきは久間氏を最大限弁護することである。そうして初めて私は久間氏に対して「中立」の立場に立ち得ると考える。
次に必要なことは久間氏の発言をできるだけ正確に引用したデータを手に入れることである。これについては今のところ一番詳細に引用されていたのがiza!の阿比留記者のブログ「http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/211450/」であった。以下に引用させていただく。

ソ連、中国、北朝鮮社会主義陣営、こっちは西側陣営に与したわけだが、欧州はソ連軍のワルシャワ条約機構NATO軍が対立していた。そのときに吉田茂首相は日本はとにかく米国と組めばいいという方針で、自由主義市場原理主義を選択した。私は正しかったと思う。
これは話は脱線するが、日本が戦後、ドイツみたいに東西ベルリンみたいに仕切られないで済んだのは、ソ連が侵略しなかったことがある。日ソ不可侵条約(※正しくは日ソ中立条約)があるから侵攻するなんてあり得ないと考え、米国との仲介役まで頼んでいた。これはもう今にしてみれば、後になって後悔してみても遅いわけだから、その当時からソ連は参戦するという着々と準備をしていて、日本からの話を聞かせてくれという依頼に対して「適当に断っておけ」ぐらいで先延ばしをしていた。米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出てくる可能性がある。
ソ連が参戦したら、ドイツを占領してベルリンで割ったみたいになりかねないというようなことから、(米国は)日本が負けると分かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落とした。長崎に落とすことによって、本当だったら日本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の参戦を止めることが出来るというふうにやったんだが、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られてしまう。
本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無辜の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。
いずれにしても、そういう形で自由主義陣営に吉田さんの判断でくみすることになり、日米安保条約で日米は強く、また米国が日本の防衛を日本の自衛隊と一緒に守るということを進めることで…。戦後を振り返ってみると、それが我が国にとっては良かったと思う。

問題となっているのはこの発言のうち「本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無辜の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。」という部分であることは論をまたないであろう。この久間氏の発言を「しょうがない」発言と纏めていることからも明らかである。しかし久間氏の発言の意図は「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っている」というところにあったのだろうか。
この発言の「しょうがない」という部分が問題化したのはインパクトの問題である。政治的には完全な失点だろう。この発言を聞いた時、私は津島派自爆テロかと思ったくらいだ。ただ久間氏は津島派のエース額賀福志郎議員の総裁選出馬を阻み、津島派を安倍陣営支持でまとめた論功行賞で入閣している、という経緯からすれば、自爆テロという意図は全くなさそうだ。とすれば、逆風が吹いている参院選の直前でさらにそれを強める発言をしたのは、久間氏に根本的に緊張感が欠けていたことを表す。izaによれば久間氏は安倍総理に発言を叱責された後に「「まあ、脇が甘いのは昔からじゃ。年のせいかな」「反発しているのはもともと反自民の人だ」「参院選への影響は特にないじゃろ」と、平然としていた」という(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/60359/)。この辺の認識の甘さに関しては大方の賛同は得られるだろう。
しかし見方を変えれば、久間氏が安倍氏から「叱責」された後も「平然としていた」のは、久間氏の本意とは違うところで「叱責」されたからではないだろうか。自分としては「しょうがない」という見方にはこだわりはなく、軽い気持ちで語っただけなのだ。適切な言い方であれば正しい、と久間氏は思っているし、久間氏への批判が「理解できない」という意見もそこに由来するのだ。つまり「しょうがない」という言葉尻を捕まえて不当な論難を行なっているようにしか、久間氏及び久間氏の発言を擁護する人には言えないのである。そしてその指摘は、ある意味正しい。
久間氏の発言の真意は、アメリカとの協調関係を強調することにある。従って原爆投下に関する認識がアメリカの主張に沿ったものであるのだ。久間発言を「しょうがない」とまとめることで、そこに孕まれる問題点が見過ごされてしまうのである。
久間氏の発言は、ある意味次のように考えることが出来る。戦争を早く終わらせることの出来なかった日本の市民として、「被爆」という体験をどのように受容するのか、ということへの問い掛けである、と。或いは無謀な戦争を始めた加害者としての日本が「被爆」という事実をどう受け止めるべきなのか、という問題である、と。久間氏を擁護する、ということは、少なくとも敗戦が決定的な情勢でも「神州不滅」という非合理的なイデオロギーにこだわり、国民の生命よりも「国体護持」という空疎な目標にこだわった揚げ句の「被爆」という体験をどう受け止めるべきなのか、ただただアメリカの原爆投下のみを批判すべきなのか、大日本帝国の指導者にも批判されるべき問題はなかったのか、ということを久間氏は問いかけているつもりだったのではないのだろうか。
例えば次のようなやりとりがApeman氏のブログのコメント欄(「「誤解を与える発言」「気持ちを傷つける発言」(追記あり) - Apeman’s diary」)で行われている。tomojiro氏が次のようにコメントする。

まあ、一私人としてであれば久間防衛大臣の意見は、一つの意見でしょう。個人的には、それほど的外れでもないと思います。戦争末期の狂気じみた軍部の戦争継続の意思(降伏するよりは滅亡したほうがよい)を目にすると、原爆が一つの言い訳になったこともわからないではありません。問題はしかし大臣の座にあり、選挙を前にした与党の政治家がいうことかというところでしょう。日本の政治家のセンスのなさというのには本当に辟易とさせられます。

それに対するApeman氏の返答。

tomojiroさん
もっと早い段階で戦争を終わらせることができなかった国家の市民として、「被爆」という経験をどのように受容するか…という点でいろいろな考え方があってよいのはもちろんですから、閣僚特に防衛大臣の発言でなければ批判にはもう少し丁寧な議論が必要になってくるだろう、とは私も思います。ただ、史実にてらしてもおかしいところを含んでますからね。

本来なされるべきはまずは久間氏の認識の中における「史実」の批判であるはずだ。「しょうがない」という言葉尻を捕まえて議論すべき内容ではないだろう。
と、久間氏発言を纏めてみた。実際にこれが的を射ているのかはわからない。