史料を解釈するということ

歴史学もまたトンデモとの親和性が高い学問である。ほとんど歴史学の素養がなくても、最低限の古文・漢文解読能力があれば、いっぱしのことは言えたような気になる。さらに最近は情報化が進んでいるので、下手すればすでに自分が使いたいと思っている史料の解釈も存在したりする。
しかし字面だけ解釈して史料が読めるわけではない。史料を読むには字面の裏まで読み込まなければならない。それ以前にその史料がどういう史料なのか、という確定、さらにはその史料の信頼性を検討する作業もあるのだが、ここではそれは出来たものとして、史料の字面の解釈を実際に行ってみたい。
使う史料は以下の通りである。

奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢取負。エソカ島ヘ没落云々。和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也。重可被仰遣条可為何様哉、各意見可申入旨畠山、山名、赤松ニ可相尋処、畠山重可申入云々。山名、赤松ハ重可被仰遣条尤宜存云々。

追記
こちら史料が主であった。

南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々。以上畠山意見二カ条。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。

これは『満済准后日記』永享四(一四三二)年十月二十一日条と同十一月十五日条である。記者の満済醍醐寺三宝院門跡で、二条家の庶流今小路家の出身で、足利義満、義持、義教に使えた政僧である。応永十八(一四一八)年から永享七(一四三五)年までの記録が残されている。現在入手しやすい刊本としては『続群書類従』補遺一・二が存在する。これらは醍醐寺所蔵の満済自筆の原本を底本としており、比較的信頼性が高い。
史料批判上留意すべき点としては、満済があくまで室町殿を支える立場から執筆している、という点がある。従って室町殿が最大限美化されている、という点と、都合が悪いだろう問題については記述されていない可能性が高い、という点である。満済の性格を物語るものに、『満済准后日記紙背文書』がある。『満済准后日記』は当初具注暦に書かれていたが、次第に情報量が増えて書ききれなくなり、満済のもとに送られてきた手紙を貼り継いだ紙の上に書かれるようになったと考えられる。興味深いのは、その紙背文書の性質で、あくまでも私的なとりとめのない手紙ばかりで構成されており、満済の政治活動を示す内容の手紙が見つからない点である。『満済准后日記』の裏にないのだから、満済は政治的な手紙を一切授受しなかった、というのはあり得ない話で、「見つからないからない」という安易な議論を主張する余地はない。満済が意識的に紙背文書を選び抜いて利用した、と考えられる。同様に『満済准后日記』における情報も相当取捨選択がなされており、利用する際には、例えば同時代の日記である『看聞日記』(記者伏見宮貞成親王)や『建内記』(記者万里小路時房)などを随時参照することが求められる。
さて、この史料について榎森進氏は著書『アイヌ民族の歴史』(草風館、二〇〇七年)の中で次のように訳している。

南部氏に対し下国安藤氏と『和睦』のことについて御内書をもって南部方に指示すべきである。もしそれでも南部氏が承諾しないのであれば、御内書を曲解していることになり、それは許されないことである。陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきである。いまさら躊躇すべきではない。これが畠山の意見二か条である。山名も南部へ御内書を送ることは畠山と同意見である。

そしてこの解釈に従って榎森氏は次のような見解を打ち出す。

近年は、下国安藤氏は、永享四年に夷島に敗走したとはいえ、南部氏に対する室町幕府の強力な説得策によって夷島への敗走後間もなくにして津軽十三湊に戻ることができたこと、従って下国安藤氏が名実共に夷島に敗走するにいたったのは嘉吉三年のことであるとする解釈が次第に有力な見解になってきている。その論拠は、室町幕府の南部氏に対する説得工作が成功したとの理解と、永享八年「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」が羽賀寺の再建を行っている等にある

しかし前提となる「南部氏に対する室町幕府の強力な説得策によって夷島への敗走後間もなくにして津軽十三湊に戻ることができた」という部分は残念ながら、『満済准后日記』の当該箇所からは導き出せない。従って「下国安藤氏が名実共に夷島に敗走するにいたったのは嘉吉三年のことであるとする解釈」は論拠の一つ、つまり「室町幕府の南部氏に対する説得工作が成功したとの理解」は崩壊している。その上で、「羽賀寺の再建」は別に下国安藤氏の十三湊回復を必ずしも前提とする必要はない。十三湊回復を願って、若狭国小浜の羽賀寺を再建することにより宗教的・政治的な効果を狙った、とも考えられる。
発掘成果によれば「大規模な火災を受けたあとに火事場整理など復興作業が行われましたが、これ以降急速に衰退していった状況が明らかとなってきました」(『中世十三湊の世界』新人物往来社、二〇〇四年)ということであるが、「火事場整理」の主体が下国安藤氏という証拠はない。復興作業を行なったのが南部氏ではない、という証明が為されねばならない。
下国安藤氏が蝦夷地へ敗走した年代について、現在通説となっているのは永享四(一四三二年)に一旦敗走するも、によって戻り、しかし嘉吉の乱による足利義教暗殺後の嘉吉三(一四四三)年に再び敗走した、という考えである。しかし「南部氏に対する室町幕府の強力な説得策」が存在した、という論拠となっている『満済准后日記』の解釈が根本的に誤っているので、そのような「通説」が導き出されたのである。
多くの論者が「通説」に従って下国安藤氏の蝦夷地没落を一四四三年としている。しかしそれらはいずれも論拠を吟味しないまま無批判に「通説」を流布しているのである。こういう事例はネットでは非常に多く見られることである。誤った情報を元に情報が流されていく。正されないまま「通説」として流布していく。これはある意味非常に怖い事例である。
次回以降、『満済准后日記』の当該箇所の正確な解釈を提示し、その背景を考察し、下国安藤氏の蝦夷地敗走の経緯を再構成したい。