史料を解釈すると言うこと2

下国安藤氏について説明を加えておこう。
安藤氏とは津軽十三湊を中心に勢力をはった豪族で、安倍貞任の子孫を自認する。さらに系譜を遡れば、神武天皇に抵抗した長髄彦に行き着く。津軽安東氏あるいは安東水軍と言った方が通りがいいだろうが、鎌倉時代にはもっぱら「安藤」表記であり、「安東」というのは後世の表記である。
現実の歴史に登場するのは、日蓮の文書に「安藤五郎」が「頚をばゑそにとられ」とある。この安藤五郎に関しては他にも「保暦間記」に北条義時によって「蝦夷管領」に任命された、という記述があり、「地蔵菩薩霊験記」には「蝦夷」を征伐した人物として出てくる。
安藤五郎の孫の安藤宗季と安藤季長が鎌倉時代の末期に争った事件は、鎌倉幕府滅亡の原因の一つと考えられている。安藤宗季の子孫はその後高季、法季、盛季が続く。盛季の代に弟の鹿季、重季がそれぞれ湊家、潮潟家となり、嫡流の盛季の子孫は下国家となる。下国安藤氏というのは下国家のことであり、津軽安藤氏の嫡流である。
盛季の子の康季の代に南部氏との抗争に敗れ、康季、義季が戦死して下国家は断絶し、庶流の潮潟政季が下国家を継承する。政季の娘が武田信広と結婚し、信広が蠣崎家に養子に入って松前藩の藩祖となる。政季、忠季、尋季、舜季、愛季と続き、愛季の代に織田信長との関係を築く。愛季の子の実季の代に秋田氏となり、宍戸藩を経て三春藩となる。湊家の子孫は秋田藩の佐竹家の家臣に、政季の弟の家政の子孫は松前藩松前家家老となる。
ここで問題となっているのは、下国康季(一説には盛季)が南部氏との抗争の末に蝦夷地へ敗走する年代の問題である。敗走した確実な同時代の記録が昨日挙げた『満済准后日記』永享四(一四三二)年十月二十一条なのである。しかし一方で松前藩松前景広によって一六四三年に編纂された『新羅之記録』には嘉吉二(一四四二年)という説が書かれている。その二つの年代を両立させるために永享四年に一旦は南部氏の攻撃によって蝦夷地に敗走するが、足利義教の強力な説得によって十三湊に復帰することが出来た。しかし嘉吉の乱足利義教が赤松満祐に暗殺されると、後ろ盾を失った安藤氏は再び南部氏の攻撃を受け、嘉吉二年に蝦夷地に再度敗走した、という話になっている。
しかし『新羅之記録』がそれほど信用にたる記録なのか、ということが問われねばならない。そもそも松前藩の公式な史書である『福山秘府』において既に「新羅記、年代記共妄説也」とされているのである。『福山秘府』の著者である松前藩家老松前広長は、下国氏と戦ったとされている南部義政について検討を加え、南部義政が嘉吉元年に既に死亡していることを指摘したうえで「新羅記」すなわち『新羅之記録』が「妄説」である、との見解に立っているのであるが、『新羅之記録』の信頼性については北海道立文書館所蔵の『松前下国氏大系図』にも「我藩旧紀モ亦有所謬乎」としている。『新羅之記録』が何を論拠として嘉吉二年に下国安藤氏が蝦夷地に敗走した、としているのかは不明だが、少なくとも『新羅之記録』を編纂した松前景広は『満済准后日記』を参照することはできなかったであろうことは念頭においていいだろう。
というわけで、『満済准后日記』永享四年十月二十一日条の榎森氏の解釈とそれへの検討は次回に。