史料を解釈するということ3

ようやく史料の解釈について。
まず今回解釈する史料を挙げておく。

奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢取負。エソカ島ヘ没落云々。和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也。重可被仰遣条可為何様哉、各意見可申入旨畠山、山名、赤松ニ可相尋処、畠山重可申入云々。山名、赤松ハ重可被仰遣条尤宜存云々。

これは『満済准后日記』永享四年十月二十一日条。
まずは語句説明から。「奥ノ下国」とは前エントリで説明した通り。下国康季のこと。「南部」は南部義政。「畠山」は畠山満家。「山名」は山名時煕。「赤松」とは赤松満祐。いずれも室町幕府重臣で、当時の室町殿足利義教の信頼厚い人々。
一ヶ月後の十一月十五日には再びこの三人に諮問があった。それへの最終的な畠山満家山名時煕の回答が次の通りである。

南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々。以上畠山意見二カ条也。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。

次に榎森進氏の解釈を挙げておこう。

南部氏に対し下国安藤氏と『和睦』のことについて御内書をもって南部方に指示すべきである。もしそれでも南部氏が承諾しないのであれば、御内書を曲解していることになり、それは許されないことである。陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきである。いまさら躊躇すべきではない。これが畠山の意見二か条である。山名も南部へ御内書を送ることは畠山と同意見である

榎森氏の解釈で一番問題になるのは「曲」の解釈である。榎森氏は「曲」を「曲解」と訳している。つまり「若不承引者、御内書等不可有其曲歟」を「南部氏が承諾しないのであれば、御内書を曲解していることになり、それは許されないことである」と解釈し、義教政権そのものの遠国政策である「遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟」を「陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない」と訳している。
「曲」という言葉は室町時代には「曲解」という意味はない。「曲」とは「ある状況に対応してなされる、もっともふさわしいやり方」ないしは「ある状況に対応してなされる行為として、もっとも望ましいすがた」という意味である。したがって「若不承引者、御内書等不可有其曲歟」というのは、「もし南部氏が承引しなければ、御内書というのはふさわしいやり方ではないのではないか」という意味である。そしてその言を発している主体は義教その人である。榎森氏はその発言の主体を満家としているように読めるのだが、榎森氏が訳する時に落としているのは「事」という一字である。
「南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟」というのは、「もし承引しないのであれば、御内書は南部氏が下国安藤氏を蝦夷が島に追い落とした状況に対応してなされる行為としてはふさわしくないのではないか、という事について、遠国のことの成敗についてはいつものことであり、当御代に限ったことではない」と訳されるべきであり、「若不承引者、御内書等不可有其曲歟」というのは義教がこのことを気にしているのである。それに対して満家は「遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟」と答えている。
ここで出てくる問題は「何様御成敗」の内容である。榎森氏は「昔からどのような御成敗もしてきた」とあるが、これもいささか内容が不明確である。それと「遠国事」というのを「遠国なので」というのも解釈としては成り立たない。「遠国のことについては」というのが正しい解釈である。満家は次のように行っているのだ。「遠国のことについては、昔よりどのようであれ処置についてはいつものことであり、今の御代に限ったことではない」としている。
では室町幕府はどのような処置を昔からしてきたのであろうか。それを端的に表すのが満家の次の発言である。満家は言う。「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣之事ハ非当御代計候。等持寺殿以来代々此御計ニテ候ケル由伝承様候」と。訳すれば「遠国のことは、少々の事、上意のごとくならなくても、程々でさしおかれることは、今の時代に限ったことではございません。等持寺殿(足利尊氏)以来、代々そのようにしてきたのであります」ということである。つまり室町幕府は一貫して遠国のことに関してはほどほどにしか関与しない、という姿勢がある。榎森氏は「陸奥の国は遠国なので昔からどのような御成敗もしてきたのであり、当御代に限ったことではない。よって御内書を遣わされるべきである。いまさら躊躇すべきではない。」としている。つまり榎森氏の解釈では遠国なので強い処置をすべきである、ということになるのであるが、実態は逆に「遠国の事については、昔から程よき程度に処置してきたのであり、それは今の時代だけではない」と、強い処置をすることには慎重なのである。
それでは結論として出された「仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々」というのはどう解釈されるべきなのだろうか。結論として満家は御内書を出すべきである、と言っている。この結論と「程よき処置」とどう両立するのであろうか。この問題を解きほぐすには義教と満家の政策のずれについて考える必要があるだろう。義教は基本的に「外聞」つまりメンツを気にする。だから「若不承引者、御内書等不可有其曲歟」と南部義政が義教の御内書を拒否する可能性を気にしているのである。だから義教は御内書を出さずに済ませたいのだ。それに対し満家の基本方針は「無為」である。下国康季がしきりに申し入れている以上、御内書を出して置くこと自体は必要なことであり、なおかつそれが南部義政に受け入れられなくてもやむを得ない、と考えていたのである。
同様の事件が、その二年前の大内氏の内紛である。大内盛見は少弐満貞と戦い、戦死した。その後をめぐって大内持盛と大内持世が争ったのであるが、一方を支援して「天下大義」にでもなれば判断ミスが問われる、とメンツを気にする義教に対し、満家は「遠国のことは少々上意のようにならなくても、程よいところで差し置くのが等持寺以来の伝統である」と述べている。つまり「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣之事ハ非当御代計候。等持寺殿以来代々此御計ニテ候ケル由伝承様候」というのは、この時に述べられた意見であり、「遠国事自昔何様御成敗毎度事」と同じ意味を持つのである。義教がメンツを気にして動けない時に、「受け入れられなくても責任問題にはならない」として、受け入れられないことを前提に御内書を出すことを主張しているのだ。これは「強力な説得」ではない。傍観はしていない、というポーズでしかないのだ。
ではなぜ室町幕府はかかるポーズしか出しえないのか、あるいはそのポーズをすることに何の意味があるのか。これは当時の室町幕府と鎌倉府との対立構造が背景にあり、また鎌倉府に対する義教と満家の態度の差異も背景にある。これについて少し考えたい。