集団自決備忘録

東島誠氏の『公共圏の歴史的創造』に書かれた次の問題は、沖縄の集団自決に関する歴史記述にも関連する問題である。

反・修正主義に立つ大多数の歴史家が死守しようとする、学問のあり方そのものに、修正主義を克服できない桎梏がひそんでいるのではないだろうか。


実際、こうして「通史」を実体化している最中にも、日本国内において歴史修正主義が台頭してきているのである。これらが本来同根のものであることを自省すべきであろう。そしてこの修正主義者に対する日本の歴史家の反駁は、その学問的誠実さと努力の傾注とは裏腹に、必ずしも旗色がよいとは言えない。なぜなら、修正主義者たちの構え自体が、「大虐殺や従軍慰安婦の事実を実証せよ」という、経験科学のアキレス腱への攻撃である以上、実証が成立しなければ修正主義者に軍配を挙げざるを得ないからである。実証の成立を最終的に判定するのは学者集団ではない。多数のオーディエンスであり、生活世界(レーベンスヴェルト)の論理である。

この問題に関しては、実証主義という科学認識そのものの政治性を認め、実証とは一つの恣意的な操作である、という前提に立つほかないのではないか。そうでない限り、修正主義がいかに荒唐無稽な論調で挑んできたとしても、これに有効に反駁することはできないであろう。もちろん必要な実証的反論は無限に行なうべきである。

歴史学は再び試されている。今回の教科書記述に関する検定意見は、畢竟「集団自決が軍命であった事実を実証せよ」という、経験科学のアキレス腱をついているのであって、実証の成立は難しい。
この問題に関連してkechack氏の次の記述(「2007-10-03」)は非常に参考になる。

また沖縄県民に理解を示す立場を取るマスコミの記述にも、いささか疑問がある。少し記述内容の問題に傾斜し過ぎである。「軍に命令はあった。」という文脈に捕われると、見直し派に末梢論に持ち込まれて墓穴を掘る。見直し派は目論見は少しでも旧軍が非人道的で蛮行を行ったという印象を薄めたいというのもので、その為に「軍が命令を出した証拠がない」という常套手段のロジックで煙に巻きたいのである。
本来なら、文部科学省教科書検定制度、特に教科書調査官の人選の問題をもっと問題視すべきである。この問題の核心はこちらなのだ。本来、議論が分かれる問題であるにも係らず、結論が出る前に「これが史実だ」と断定し、それを事実上国の見解にしてしまっているのである。

記述内容に傾斜しすぎて、墓穴をほる、というのは、まさに「経験科学のアキレス腱」を表している。実証科学では「軍が命令を出した証拠がない」という常套手段を完全に論破するのは意外と難しい。必要な実証的反論は無限に行うべきではあるのだが、同時に「実証とは一つの恣意的な操作である」ということを自覚する必要もある。
今回の問題で一番議論されるべきはまさに文部科学省教科書検定制度そのものである。
教科書調査官の人選の問題についてはいろいろと考えるところがあるのだが、私は検定官の人脈を問題視しすぎるのも、無意味であると思う。調査官の変遷を検討しなければ話にならない。一昔前は「ミスター調査官」と言われた村尾次郎氏が牛耳っていて、その後家永教科書裁判を経て、かなり人選の問題も変わったはずである。それが小泉・安倍政権の間にまた戻っているのか否か、という問題も考えなければならないし、一筋縄で検討できるものでもない。こういう問題こそ歴史学研究者の出番なのかも知れないが、人間関係もあったりして、あまり強く言えないんだよな。私にも伊藤隆氏の弟子筋の知りあい何人かいるし。というわけで、この問題に関してはぐだぐだです。