専門職批判

朝日新聞の今日の論壇時評。政治学者の杉田敦氏。

学校現場での教師への風当たりも強い。教育界に反省すべき点も多いが、学校で身勝手にふるまったり、教師に筋違いな要求をしたりする「モンスター・ペアレント」の存在も伝えられる。官僚批判と同じく教師批判でも、政治家や政府が、「民意」を後ろ盾に中心的な役割を果たしている。教師は「サービス労働者」として「消費者」の要求に従えという市場主義的な発想と、教師は公務員として政府の方針に従えという国家主義的な議論とが、教育改革論として連動してる面がある。

今の「改革」というもの自体が「市場主義的な発想」と「国家主義的な議論」が連動したものだ、という気がする。
続いて「欠けている当事者意識」という部分で、憲法学の西原博史氏と教育学の堀尾輝久氏の論争が紹介されている。

憲法学の西原博史は、子どもの権利論の立場から、たとえば日の丸・君が代への反対を子どもに強制するのも(賛成への強制と同様)教師の権力行使であり、教師は教育内容の決定を独占すべきでない、と問題提起した。これに、長年教育学の主柱であった堀尾輝久が反論を試みている。子どもが発展の途上にある以上、教育内容の決定は、最終的には「教師の専門性に基づく『責任と権限』」に委ねられるべきである。「教師の自由が奪われれば、生徒の自由も失われる」ただし、教師には責任を果たすための不断の研究が求められるし、親や地域住民の声にも耳を傾けるべきだと言う。

この問題を議論する時に「日の丸・君が代」を例に出すのは、問題が複雑になるだろう。次のように言えば問題はよりクリアになるだろうか。子どもの権利論から言えば、進化論を教えられるのも、読書すべき本を決められるのも、「子どもに対する教師の権力行使」なのだ。例えば読書感想文を書く時に、ある特定の枠をはめることは、当然「教師の権力行使」になる。読むべき本の選定を教師が独占すべきか否か、ということになる。あるいはID説を教えずに、進化論を教えるということについて、宗教者や論壇から「ID説も教えるべきだ」と言われた時に教師はどうするべきか、という問題である。このように言われると「教師の専門性に基づく『責任と権限』」に委ねられるべきである、という感じがしてくるのだ。生徒の自由に任せると、とんでもない本を持ち出す恐れがある。ちなみに私は読書感想文に『増鏡』を題材にしたことがある。アホだ、としかいいようがない。当時の国語の先生は優しかったが、今の私ならば書き直しを命じるだろうな。