集団就職

「昭和の鉄道模型をつくる」の記事から触発されたことなので、「昭和の鉄道模型をつくる」カテゴリーに入れるべきかも知れないが、一応「雑記」項目に入れる。
山崎行太郎氏が自身のブログで曾野綾子氏の「沖縄差別」を論じている(「http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071202/p1」)。それに対して氏の掲示板(「http://bbs10.fc2.com/php/e.php/dokuhebi-bbs/」)に批判があり、それに対する反批判を山崎氏が展開している。その議論と「昭和の鉄道模型をつくる」19号の「希望と不安の集団就職」という記事とが少し重なり合うのだ。
この論争は「土建屋」というHNの人が山崎氏の掲示板に山崎氏の批判を欠いてきたことに始まる。

土建屋を40年やっている。これまで多くの沖縄県人を雇用したが使い物にならなかった。時間は守らない、無断欠勤はする等々・・・。これは何も私の会社だけでなく、他にも通用する沖縄県人の「県民性」だ。
バブルの時は、人手も足りなくだましだまし使っていたが、建設不況と同時に一人二人残して皆やめて貰った。県民性と同時に沖縄日教組の教育が相乗作用を起こし、ああした無責任の人間が排出されれのであろう。まとも沖縄人は努力して本土に残るが、そうでない「沖縄県人」は島に帰る。
沖縄ではそこはそこそこ食えさえすれば、生活に困るところではない。学力も最低、少年非行はダントツトップ、犯罪率も群を抜く。これはアメリカのせいではなく県民自身のなせる技なのだ。
曾野綾子氏は、具体的現実を指摘しているのであり、それを「差別」とするのは、山崎氏のそうありたいとする主観でしかない。「差別」とするならば抽象論ではなく、具体的事実を上げて指摘、検証しなければ説得力は無い。

それに対し山崎氏は次のように反批判を展開する。

私は、長いこと、日本一の貧乏県と言われていた鹿児島県生まれ、鹿児島県育ちの人間ですが(笑)、まつたく、滅茶苦茶な、ひどい話ですね。沖縄県沖縄県人を、朝鮮や中国、あるいは東南アジアやアフリカやそこの住民を見るような侮蔑的な「まなざし」で見ていますね。沖縄県人は、陽気ですが、教育熱心な県民ですよ。土建屋を差別するつもりありませんが、土建屋風情に、沖縄県人の「県民性」を云々される筋合いはないでしよう。貧乏な本土人(貴殿のこと……)の「ひがみ」を感じます。いわゆるプアー・ホワイトの「黒人差別」意識と同じです。底辺の人間はさらに底辺の人間の存在を妄想し、それを差別し侮蔑することによって、自分達のミジメな生活を正当化し安心しようとする。いずれにしろ、貴殿の沖縄県人の県民性論は、なんの根拠もなく、貴殿の個人的な体験でしかなく、それを普遍的な真実のごとく語るとは、貴殿の常識と良識を疑いますね。偏見以外の何物でもないでしょう。貴社では、東京生まれ、東京育ちの人間を、あるいは東北各県の人間を雇ったことがありますか? 貴殿は何処の県の生まれですか(笑)。

それに対し「土建屋」氏は反論する。

青森県鰺ヶ沢出身、高卒で昭和23年生まれ。土建屋風情と仰いますが、土建屋として社会に貢献して生きてきていますが。朝から晩まで汗と泥にまみれていますが、この方、土建屋風情といわれたのは初めてですが、土建屋風情とは何を言うのでしょうか教えて頂きたい。
雇用は主に秋田、青森、岩手の職人が主で全体の7割、後は熊本、鹿児島、関西です。
実体験はあくまで個人的な経験ですが、職人の使用期間と数の蓄積から法則性は導き出せます。さらに同業同種の実際を照らし合わせれば、しっかりとした類似性が導かれるのです。
これは偏見ではなく法則なのです。だからといって全ての沖縄県民が使い物にならなかったとは言っていない。社員と関連業者、その家族の生活に責任を持った経営をするとすれば、よけいなコストとリスクを避けるのは当然である。人間に対しては厳しく能力を評価、査定します。能力のある人間と無い人間は当然区別、つまり差別される。これは特定の対象を基準にした能力であって、その人間の全てを対象・網羅したものではない。

山崎氏は最後に議論を閉める。

そうですか。わかりました。「土建屋風情」というのは、貴殿の「沖縄差別発言」を皮肉って、言ってみただけです。深い意味はありません。取り消します。
さて、貴殿の会社のような東北出身者が経営し、東北出身の若者達が中心の会社に、沖縄や鹿児島の若者たちが、長期間、勤務し続けることは、おそらく、そもそも無理でしようね。
さて、私は、現代日本人の「沖縄差別」意識を問題にしているので、それ以外の「職業差別」や「地域差別」の問題には興味ありません。
この話題は、これで終わりにさせてください。悪しからず。

土建屋」氏の議論はありがちな差別意識である。山崎氏の「貴殿の沖縄県人の県民性論は、なんの根拠もなく、貴殿の個人的な体験でしかなく、それを普遍的な真実のごとく語るとは、貴殿の常識と良識を疑いますね。偏見以外の何物でもないでしょう」につきる。「個人的な体験」を「普遍的な事実のごとく語る」のは、その人の自己評価が極めて高いことを示している。「個人的な体験」はどこまで積み上げても「個人的な体験」なのだ。そこに「法則性」を見いだすのは、自分が世間の指標である、とおそらくは無意識に思い込んでいるからに他ならない。「土建屋」氏は鯵ケ沢の出身で、雇用が「主に秋田、青森、岩手の職人が主で全体の7割」ということで、そこにいる沖縄人のサンプルは「東北出身者が経営し、東北出身の若者達が中心の会社」にいた沖縄の若者でしかなく、それをいくら積み重ねても、沖縄人全体の性格の「法則性」を見いだすことはできない。こういう具体から抽象への議論の展開が「土建屋」氏はできない人なのだ。もっとも私は歴史学研究者という、個別具体的な事象を「実証」する「実証史学」をなりわいとしている関係上、具体から抽象への議論の展開ができる人間か、と言えばはっきりいって出来ない(笑)。だからそういう点で私に「土建屋」氏を批判する資格はない。だから私は「土建屋」氏の論に対しては「他山の石」とすることしかできない。
ただ山崎氏の「貴殿の会社のような東北出身者が経営し、東北出身の若者達が中心の会社に、沖縄や鹿児島の若者たちが、長期間、勤務し続けることは、おそらく、そもそも無理でしようね」という発言で想起されるのは、井川慶投手がメジャーへのポスティング移籍を阪神タイガースに要求した時の経緯である。井川慶投手は茨城県の大洗出身、水戸商業高校から阪神入りした。同じ茨城県出身のデーブ大久保氏と親しく、メジャー移籍の時にも相談していたようだ。デーブ大久保氏は当時コメンテータを務めていた「スポルト」で「『だっぺ』(井川投手の愛称)には関西のあの雰囲気は厳しいでしょう」。似たようなことは広澤克実阪神タイガース打撃コーチも指摘する。広澤コーチは井川投手と同じ茨城県出身(育ちは栃木県)ということで、井川投手の自主トレ相手であり、相談にも乗っていたようだ。広澤コーチは関西のローカル番組「ぶったま」で「いやぁ、関西はきついですよ」と発言している。
最初の「土建屋」氏の「これまで多くの沖縄県人を雇用したが使い物にならなかった。時間は守らない、無断欠勤はする等々・・・。これは何も私の会社だけでなく、他にも通用する沖縄県人の「県民性」だ」という発言に重なり合う記述が「昭和の鉄道模型をつくる」19号の記事「希望と不安の集団就職」だが、そこでは香川県から首都圏の紙パルプ工場に就職した人の声が載せられている。

高卒者より私たちのような中卒のほうが、求められました。まだ素直で使いやすく、給金も高卒より安くてすんだのでしょう。それと印象深いのは、東京近県より新潟や東北など、北国出身者のほうが断然人気があったことです。昔から出稼ぎの地盤があり、忍耐強いというイメージがあったからだと思います。私の雇い主は、『千葉や埼玉の出身は実家との連絡がつきやすいから、定着性がない』と嘆いていました」

おそらく「土建屋」氏も沖縄出身者に対し、この「雇用主」と同様の悩みを持っていたのだろう。ただそれを漏らす場を誤れば、灰谷健次郎氏の『太陽の子』でのワンシーンのように非常に気まずい雰囲気になる。
それは次のような話だ。
主人公の「ふうちゃん」が仲間になりかけて姿をくらました知念少年のことを探している時に、知念が働いていた小料理屋のおかみを尋ねるシーンである。

「かわいそうやと思うて、やとうてあげたのに、やっぱりオキナワモンはあかん」ふうちゃんの体が、めらっと燃えた。体の中心から、なにかがはじけて飛んだ。全身が火のように熱かった。
「おばさん!」「なに」ふうちゃんはくちびるをかんで、きっと女を見た。
「わたしも、わたしのおとうさんもおかあさんも、沖縄です。オキナワモンいうてなんや知らんけど、沖縄の人はみんなあかんのですか」
「あら」女はあわてた。

さらにふうちゃんは言い募る。女は千円札をふうちゃんに握らせようとする、と話は続くのだが、何となく「土建屋」氏と「女」が重なってしまった。
ちなみに曾野綾子氏や渡部昇一氏は「土建屋」氏や『太陽の子』作中の「女」のような「沖縄差別」をしているわけではない。曾野氏や渡部氏は沖縄をめぐる「左翼」のあり方を批判しているのであって、「オキナワモンはあかん」とか「沖縄人の県民性」を問題にしているのではないことにも留意する必要がある。だから曾野氏や渡部氏への批判と「土建屋」氏や『太陽の子』作中の「女」への批判は全く別物であるべきなのだ。
追記
私は曾野氏や渡部氏の沖縄批判には同意しないが、有り得べき議論だとは思っている。曾野氏や渡部氏は沖縄が主体的に選択してきた日本とのかかわり方を批判しているのであり、その意味で「差別」とは言いきれない。彼らは沖縄の県民性ではなく、沖縄が選択してきた政策を批判しているのだ。それに対し「土建屋」氏や『太陽の子』作中の「女」の場合は自分の接した沖縄人への見方を一方的に沖縄の人々に広げている。沖縄の人々は○○だ、という論法になっているのだ。沖縄の人々の選択を批判することと、沖縄の人々そのものを批判することでは雲泥の差がある。私は曾野氏や渡部氏の沖縄批判には同意しないが、彼らの批判は一つの論である。したがって妥協点を見いだすために議論の余地はある。「土建屋」氏や「女」の言い分はただのヘイトスピーチである。かかるヘイトスピーチに対しては議論や批判ではなく、拒否しなければならない。ヘイトスピーチに対して妥協点を見いだすことはできない。