前件否定

こんな仕事をしていながら何だが、私はおつむがいささか弱い。思考力が弱いのだ。記憶力は興味を持ったものに対してだけは抜群だったが。だから数学がめっぽう悪かった。高校時代、名うてのツッパリ君に数学の質問を受けたことがある。曰く、途中までは分かったのだが、その先が分からなかったそうだ。で、教えてくれ、と。しかし聞いた相手が悪すぎた。私は分からないどころか、途中までも分からなかったので、そいつに教えてもらった。いや、助かった。ちなみにこの前のヘキサゴンでの問題、0.4時間が何分なのか分からなかった。
今更数学を勉強しようとも思わないが、論理的な思考力は必要だ。というわけで、自分のためだけに、機を見て論理学の勉強をここでしてみようと思う。
まずはウィキペディアの「詭弁」(「詭弁 - Wikipedia」)の勉強から。
18の詭弁が載せられている。これから一つずつ押さえていきたい。
まずは「前件否定の虚偽」から。

前件否定の虚偽(太字部分が詭弁)
A「反撃される覚悟が無いなら、苛めなんてやるな」
B「なら反撃される覚悟があれば、人を苛めて良いって事になるな
Aの発言に対するBの返答は「XはYである。故にXではないならYではない」という形式の論理であり、これは論理学で前件否定の虚偽と呼ばれる。このタイプの推論は、XとYが論理的に同値の時のみ成立する為、恒真命題ではない。Bの発言は、「セイウチが脊椎動物だというのなら、セイウチでなければ脊椎動物ではないという事だ」と同じ論理構造である。これはBとしてはAの発言を「セイウチだけが脊椎動物である」と解していることになる。
なおこの虚偽は、仮言的三段論法においても適用される。「もしAがBならば、AはCである。しかしAはBではない。故にAはCではない」は、前件否定の虚偽となる。「AがBならば」という仮定をX、「AはCである」という結論をYと置けば、「XならYである。Xではない。故にYでもない」となり、前件の否定を前提とする論理となるからである。

「前件否定」についても見ておこう(「前件否定 - Wikipedia」)。

前件否定(英: Denying the antecedent)は誤謬の一種であり、次のような推論の論証形式に関する誤謬である。
もし P ならば、Q である。
P ではない。
従って、Q ではない。
この形式の主張は妥当ではない。この形式の論証はたとえ前提が真であっても、結論を導く推論過程に瑕疵がある。「前件否定」という名称は、「前件」すなわち論証の前提部分(もし - ならば)を否定する形式であることに由来している。

うーむ、よくわからん。自分なりの例示をしないと難しい。
上のいじめの問題について考えてみる。

もし反撃される覚悟がないのであれば(P)、苛めをやってはならない(Q)。
反撃される覚悟はある(非P)。
したがって苛めてもよい(非Q)。

この形式の主張は妥当ではない。前提つまり「もしPならばQである」が真であっても、結論つまり「Qではない」を導く推論過程に問題がある。論証過程で論証の前提部分を否定する形式であることから「前提否定の虚偽」「前提否定の誤謬」と言われるわけだ。
論証の前提部分を否定する形であっても、前件否定の誤謬もしくは詭弁にならないケースもある。例えば次のような場合。

もし私がアメリカ大統領ならば、アメリカ議会の議決を拒否できる。
私はアメリカ大統領ではない。
したがって私はアメリカ議会の議決を拒否できない。

これは後件否定と言われる形式であり、前件否定の誤謬とは異なるのだ。図式化すると以下のようになる。

P ならば Q である。
Q は偽である。
従って、P は偽である。

否定するのが前提条件である「PならばQである」の内、前件であるPではなく、後件であるQなのだ。
これは前件否定の形をとっているが、前提部分の前件と後件が同値であるため、全体として妥当な主張となっている。
(ここの部分は小学部講師氏のご指摘により変更させていただいた。明らかなる私の誤読から生じたミスであり、ご指摘いただいた小学部講師氏には篤くお礼を申し上げたい。)
つまり「前件否定」とは、「PならばQである」という前提の内、前件であるPを否定する論理から名前がついている、というわけだ。

もしP(前件)ならばQ(後件)である。(前提)
Pは偽である(前件否定)。
したがってQは偽である(前件否定の誤謬)。

後件否定は前提の内、後件であるQを否定する論理であるわけだ。

もしP(前件)ならばQ(後件)である。(前提)
Qは偽である。(後件否定)
したがってPも偽である。

つまり「前提」(もしPならばQである)の中の前件つまり「もしPならば」の部分が仮に偽だとしても、後件つまり「Qである」というのも偽であるとは限らない、ということである。逆に「前提」の中の後件つまりQが偽ならば、当然「もしPならば」という部分も偽である。
まだピンと来ない人、つまり私のためにもう一つ例題。アラン・チューリングという数学者の主張より。

人がその人生を規定する行動基準の明確な規則群を持っているならば(P)、機械と何ら変わりないだろう(Q)。しかし、そのような規則群は存在しないので、人間は機械であるはずがない。

それについてのウィキペディアの記述。

人間がそのような規則群を持たないとしても、人間を機械のようなものだとすることは可能である。従って、チューリングのこの主張は根拠が弱い。

アラン・チューリングの言葉をPやQを使って考えてみる。

人がその人生を規定する行動基準の明確な規則群を持っているならば(前件)、機械と何ら変わりないだろう(後件)。ー前提
しかし、そのような規則群は存在しない(前件否定)。
人間は機械であるはずがない(前件否定の誤謬)ー結論

結論だけ見れば正しいのだ。チューリングの言う通り「人間は機械であるはずがない」。しかしそこに至る論証過程に問題がある。この場合、前件否定では、当該結論を論証できないのである。「根拠が弱い」というのはそういうことだ。結論が一見正しくても、論証過程に問題があれば、その結論も一見正しく見えても、それは真たりえない。
ということでいいのかな?