権威論証と多数論証

あるある。
敬語。最近私は「いただく」と「くださる」の誤用が目について仕方がない。気になるのだ。何か性格が悪くなるみたいでいやだな、という話を軽いノリで話していたら、「僕は言葉は変われ、という派ですから」と反論された。「敬語を丁寧語だけにする、とか、ら抜き言葉を公認する、というのとこの問題は違う」旨の話をした。そもそも敬語というものが、言葉の乱れを気にする人への言葉遣いであることが多く、謙譲語と尊敬語をまぜこぜにする、というのは何か違うような気がするのだ。「いただく」と「くださる」の違いがわからないのであれば、普通に「もらう」と「くれる」にすればいい。それに丁寧語を付けておけば、聞く側はそれほど不快には思わないはずだ。使いこなせる範囲の敬語を使うのが正しいと私は思うわけで、だから敬語の誤用は気になる。
翌日、「ネット上では『いただく』と『くださる』を厳密にしないのが多数派でした」と報告してくれた。いや、それは自分の見たネット上の意見の多数派が無知蒙昧だった、ということでしょ。多数派だから正しいとは限らんわけだ。さらに「識者も敬語を厳密にしすぎると使わなくなってよくない、と言ってました」だと。その識者がどうしようもないだけだ。敬語が難しいのならば無理に使う必要はないのではないのか。最低限の敬語でいいだろう。使えない敬語を無理して使うのを、使われる方が我慢しろ、というほうがよほど失礼だ。それならば背伸びしない範囲で使える敬語を使えばいい話だ、と言うと、「敬語なんて所詮貴族が他者を見下すために作り出したものでしょ」という。その通り、かどうかは知らないが、使いこなせないのならば使わなくていい、という私の主張に同意してくれたのかな。多分捨てぜりふだと思うが。
というわけで、今日のポイント。多数派だから、あるいは識者が言っているからと言って正しいとは限らない、という話。これは典型的な「権威論証」と「多数論証」である。ネット上ではよく見る、ような気がする。というか私が使っていない、という保証は全くない。自分では使わないようにしようと心がけてはいるが、特に「権威論証」はよく使う気がするな。
一応ウィキペディアから引用。

権威論証(ad verecundiam)
A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言ってるだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。

私が使いそうな理屈は「歴史学研究者のid:Wallersteinもそう言ってるだろう」とか(笑)。全然権威になってないし(爆)。一応「専門家」なので、「専門家」のいいかげんさには敏感かな。あとは一応大学教師のはしくれなので、大学教師の肩書きにはびびらない、という側面はあるか。というよりも「大学教師」の肩書きを振り回している人って、頭悪そう。あ、私か。まあ大学教師だからって、全く正しいとは限らないので、ご注意を。大学教師は頭がいい、とも限らない。私を見れば分かる。

多数論証(ad populum)
A「B君も早くCを買うべきだ。もう皆そうしている」
Aの発言は「Xは多数派である。多数派は正しい。故にXは正しい」というタイプの推論。『多数派』は『正しい側』と論理的に同値ではなく包含関係にもないので、この論理は演繹にならない。また、Aが「多数派は正しい。故に多数派ではなければ(少数派であれば)正しくない」という意味で発言しているならそれは前件否定の虚偽でもある。
また、Aの多数論証は、規範文の根拠が記述文になっているため、自然主義の誤謬(前述)にもなっている。
なお、厳密には「全員」ではないにも関わらず「皆」という言葉が使われているような場合、これを誇張法(hyperbole)という。誇張法は詭弁ではなくレトリック。

こちらはあまり使わないな。一応サヨクを自認しているし、サヨクである以上は、少数派であることを埃、もとい誇りにしなければならない。最近は多数派を気取るサヨクも見るが、サヨクの腐ったようなヤツだ。サヨクは少数派をこそ誇れ。「連帯を求めて孤立を恐れず」というではないか。まあ私の場合「連帯を厭って孤立を恐れる」だが。「連帯」ってしんどいし。かと言って孤立するのもいやだし。