自然主義的誤謬

とりあえずウィキペディア(「詭弁 - Wikipedia」)から

自然主義の誤謬(Naturalistic fallacy)
A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だからこれからもそうするべきだ」
Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYすべき である」という形式の文)の結論を導いている。このような形式の推論を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と呼ぶ。この推論がもし有効であるならあらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺りくを繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」という主張と論理構造が等しい。

よくあるタイプの誤謬だ。歴史学を研究対象としているとこのタイプの誤謬には非常に敏感になる。「昔からこうしてきたから、こうすべきだ」という誤謬。そう言えば内館牧子委員は朝青龍の手刀に対してケチをつけていた。右手でやるのが伝統、と。その無知振りを北の湖理事長にたしなめられていたような記憶があるが。
と気楽にいい加減なことを言っていると、実は自然主義的誤謬から外れてしまうようなのだ。危ない危ない。
自然主義的誤謬とは何か。これもウィキペディア(「自然主義的誤謬 - Wikipedia」)より。
イギリスの哲学者のムーア(George Edward Moore、1873年11月4日 - 1958年10月24日)(ジョージ・エドワード・ムーア - Wikipedia)によれば、自然主義的誤謬とは「「善い」(good) を何か別のものと同一視すること」である、という。ムーアによれば「「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である」ということらしく、私もムーアの原本に当たって議論しているわけではもちろんなく、ウィキペディアの記述に全面的に依拠しているので、詳しいことは言えないのだが、取り敢えず私が考えていたほど簡単な問題ではないことだけはよく分かった。