脅迫論証

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脅迫論証(ad baculum)

A「黙って私に従えないなら、ここから出て行け」
B「国境線はここだと主張しているが、そんなことは許さ(れ)ない。国境線はあちらだ。」

Aの発言は、「あなたがXしないなら、私はYをする。故にあなたはXすべきである」という形式の推論で、脅迫論証という。前件の仮言的命題と後件の命題は、論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、この推論は演繹にならない。Aの脅迫論証は「お前がすべき事は黙って私に従うか、ここから出て行くかのいずれかである。しかし、お前は黙って私に従わない。故にお前はここから出て行くべきである」という論旨なので、脅迫論証であると同時に「誤った二分法」(前述)にもなっている。

Bは「(なぜなら)○○条約によれば〜」などと論証すべきところを脅迫や威嚇の文言で置き換えており有効な演繹推論となっていない。「ゆるされない」と自発の助動詞を挿入する事で主語・主体を曖昧にすることで、あるかどうか分からない根拠を暗示・示唆する(未知論証)なり、権威論証(上述)なりに持ち込む方法がある。

Aの説明よりもBの説明の方がピンとくる。要するに「論証すべきところを脅迫や威嚇の文言で置き換えており有効な演繹推論となっていない」というのが肝だろう。Bももう少し威嚇的な文言を付け加えた方が分かりやすいだろう。
まあよくある詭弁で、特に教師はよく使うのではないだろうか。「帰れ」と。最近の子どもは本当に帰ろうとする。福本豊氏がオリックスの二軍監督時代、「お前みたいにやる気のないヤツは帰れ」と叱ったところ、本当に帰ってしまったことがあり、福本氏は今までのやり方ではダメだ、と反省した、という話を自著で書いておられたが、その二軍選手は多分私とほぼ同年代であろう。いわゆる新人類。その世代が今や小中学生の親である。我が身を振り返れば、まあやりにくい世代だな、と自省もするが、自省している場合ではないか。
私はなるべく威嚇的な言辞は使わないようにしている。論争でぺこんぺこんにへこませる。へ理屈にはよりへ理屈を繰り出す。だからか、私に口答えするヤツは学年が上がるにつれていなくなる。3年の時に完膚無きまでにたたきのめしておくことが必要だ。まあ大人げない、と言われればそれまでだが。