池内了氏の発言

授業でエッセイストにしてドイツ文学者の池内紀氏の文章を読んだ。その関係で弟の池内了氏の発言も読んだ。感銘を受けたのでクリッピング
信越化学工業のサイトで(「信越化学工業株式会社」)。
「科学者は専門家 責任をもって社会に発言を」というタイトル。これは人文科学こそ言えることだ。学びたい。

千葉 先生はたくさんの著書をお書きになっていますが、最近では科学者が社会とどのように関るべきかというテーマをとりあげられることが増えているようです。どういう問題意識からこのテーマが生まれたのでしょう。

池内 原子爆弾が開発され、使われてしまったということから、戦後科学者の社会的責任を問う考え方が強まった時期があります。科学者は専門家ですから、自分の理論がどのような使われ方をしたか、それが何を引き起こしたのかを知っている。だからこそ、発言しなければならない。
 湯川先生や、同じくノーベル賞を受賞された朝永振一郎先生がいろいろと発言されるようになったのも、その自覚がおありだったからでしょう。少なくとも50〜60年代はそうでした。
 しかし今は、科学者の中にそういう意識が希薄になっていると思うのです。科学は進歩し、社会に対する影響力が大きくなっているにもかかわらず、発言が減ってしまっているのはどういうことか。
 水俣病が発生したとき、熊本大学の先生は水銀による公害が原因だとしたのに、中央の大学の先生は会社側に立った発言を繰り返しました。これは実に誠実ではないと思います。地震予知の問題にしても、アメリカのロサンゼルス大地震で建築物が倒壊したとき視察に行った日本人学者は「日本ではこのような倒壊は起きない」と断言しました。ところが阪神淡路大震災はあの惨状です。自分の不誠実さをどう考えるのか。

千葉 たしかに、それについて深く反省した発言は表立っては聞かれませんね。

池内 最近の原発データ隠し問題などで、科学に対する信用がすっかり失せているのです。これはすごくまずいことです。僕は幸い書く機会が多いので、できるだけちゃんと「論」にして残しておかなければと思い、せっせと書いているわけです。
 今の科学者が発言しなくなったのは、何よりも日本がリッチになってしまったことに原因があるでしょう。科学に対する予算もついて競争が激しくなった。研究は細分化され、研究者は時間に追われながら仕事をしています。どうしたって視野は狭くなりますよ。
 ギリシャ時代は自然科学や哲学が隆盛しましたが、リッチになったローマ時代は発展しませんでした。その代わり文学は豊かになりましたけれど。人間は円熟すると人物が小さくなるものかもしれない(笑)。自然科学は好奇心によって発見され、発展するものです。今みたいに現実がおもしろいとそちらに関心が移っていくでしょうし、それでも自然科学をやろうとする人間はオタク化するんですよ。

人文科学でも誰だか失念したが、イラク人人質事件の時に、人質は日本の左翼組織とつるんだ自作自演であるとほのめかしたイスラム研究者がいたなぁ、と思い出してしまった。思い切り世論誘導に手を貸した専門家として件のイスラム研究者は池内了氏の「自分の不誠実さをどう考えるのか」という問いはまさにあてはまる。