木村龍治氏再録

科学的認識とは何か、ということに関して、非常に良い文章。一昨年の10月26日のエントリ「国語の問題文のクリッピング - 我が九条」で取り上げているのだが、今日授業で扱ったので再録。
ユリ・ゲラー来日時に出演者の一人が発言する。

いままでの自然科学は、何でも疑うことを前提に議論を進めてきた。しかし、疑ってばかりいては、新しい発見は生まれない。自然科学の原点は、先入観をもたず、現前で起こったことを素直に事実として認めて、そこからスタートすることである。スプーンが曲がったのは疑いもない事実なのだから、それを前提として議論を始めようではないか。

これに対する東京工業大学の桶谷繁夫という金属学の専門家は真っ向から反対の意見を唱える。

指でこするだけでは鉄は曲がらない。タネはわからないが、奇術に決まっている。

それに対し著者の木村龍治氏は桶谷氏の議論に説得力を感じる。

自然科学は、宗教的な信念ではなく、経験を土台にしています。しかし、その経験は、スプーンが目の前で曲がるのをみる、というような個人的な経験とはちがうのです。自然科学の土台にあるのは、多くの研究者によって踏み固められた経験の集積です。

自然科学とは、「大勢の人が協力してつくり上げた信念の体系」である。「多くの研究者によって踏み固められた経験の集積」である科学的認識を、「スプーンが目の前で曲がるのをみる、というような個人的な経験」でひっくり返そうとする時、似非科学が生まれる。
歴史学も実際には「多くの研究者によって踏み固められた経験の集積」というものがある。史料に書かれているものをそのまま、史実とは確定できない。史料批判、史料操作を行う際には厳密な学問的手続が必要である。
海保嶺夫氏は『エゾの歴史』(講談社メチエ、1996年)で次のようにいう。

最初に史料を読む際には、歴史学の方法論をしっかり身に付けておくこと(史料に呑み込まれないこと)が絶対的条件である。そうでないと、単なる物知りか、歴史学とは異次元の世界に安易に飛び込むことにもなりかねない。

歴史学の方法論」がまさに「多くの研究者によって踏み固められた経験の集積」なのである。それを「個人の体験」や個人の信念で丸ごと否定することがまさに「歴史修正主義」に他ならないのではないか。少しレッテル貼りの道具となっている歴史修正主義について、慎重に考察する必要はあるだろう。