タキ5450

今ほしいのが河合商会のタキ5450(「http://www.kawaihobby.co.jp/n/index.htm」)。

今のレイアウトには合わないし、牽引する機関車は・・・、ED62か?しかし液化塩素を運ぶタンク車などかなり用途が限られてくるだろう。しかしなぜほしいか、と言われれば、「北海道曹達」所有のタンク車があるからだ。北海道曹達と言えば、アイヌ史研究には避けて通れない、と私は思っている。元北海道曹達株式会社社長山田秀三は、アイヌ語地名の研究者としても不朽の功績を打ち立てた人なのだが、私の関心事から言えば、知里真志保との関係を抜きには出来ない。
山田秀三農商務省、東条内閣参事官軍需省化学局長を経て1946年辞職。その後は独学でアイヌ語の勉強していたが、一人での研究に限界を感じ、1947年金田一京助に入門していたが、1949年北海道曹達株式会社社長に就任することになり北海道に行くことになった。それでもアイヌ語の研究を続けたいと思った山田は金田一に研究者の紹介を依頼する。金田一は「札幌には私の学問上の子供と思っている男がいますが、少し難しいところがあるので、ご紹介していいのかどうか」といいながら、弟子で当時北海道大学講師だった知里真志保を紹介した。金田一の危惧とは裏腹にこの二人は馬が合ったようで、知里の死まで共同研究は続けられた。二人で研究上の見解の相違から大論争から罵り合いになり、喧嘩別れをした、と思ったら、次にはけろりとして何事もなかったように和気靄々としていた、ということがあったらしい。知里にとってはどうしてもアイヌを研究対象とする和人研究者には何かしらのこだわりがあったのだろうが、もともとアイヌ史研究者ではなかった山田には気を許せたのだろう。山田は知里の名著と言われる『アイヌ語研究入門』にも一文を寄せている。山田が河野広道と知里の対立に気をもんでいたことや、金田一知里との関係を取り持とうとしていたことがうかがわれて興味深い。山田が河野と知里を喫茶店に呼んで間を取り持とうとしたが、双方とも山田とは話すが、お互いは顔も合わせない、ということでさじを投げた、とか、知里金田一を痛烈に批判したところに関して、山田は知里を非難したが、知里は「気が済みました。もうあんなことは書きません」と言ったそうだ。山田は「どうだか」と知里の反骨心に期待している。そしてこわごわ金田一のところに顔を出した。さぞかし金田一は気分を害しているだろう、と思ったが、金田一は「知里君のいうことはその通りです。知里君の著書をテキストにして研究者とはかくあるべし」ということを言っています」と言ったそうで、金田一の苦悩も表されている。このころ金田一知里の師弟関係はかなりこじれていたようで、知里金田一に対して「先生は俺に嫉妬している」と岡正雄金田一を支援した岡書院店主岡茂雄の弟で民族学者)にこぼし、一方金田一は日本人類学会・日本民族学協会第8回連合大会の講演を金田一に依頼した岡に「知里君とのことがあるから」と欠席することを告げた。山田が金田一から研究内容で叱責されたことの愚痴を知里にこぼした時、知里は「山田さんはうらやましい。僕は先生から叱られたことがない」と述懐し、山田や岡は知里に対し、金田一と会うように勧め、知里金田一の元を訪れたそうで、その後、金田一は子息の春彦に「知里君が来てくれたんだよ、真志保君が来てくれたんだよ」と涙声で語ったそうだ。
山田を見ることで知里の置かれていた状況が見えてくる、と私は思っているのだ。知里アイヌ学の特質をまとめると以下のようになるだろう。アイヌ学にとってその研究対象であるアイヌ語アイヌ文化とはあくまでも学問の対象=インフォーマントであったわけだ。知里とは「語り出したインフォーマント」であり、「学問」する側は知里をあくまでも「インフォーマント」として内側に閉じこめようとし、知里はそれへの反発を彼の学問の特質とした、という面は指摘される。そして知里が山田に心を許したのは、山田が知里を「インフォーマント」とは見ようとしなかった、というところにあるだろう。Nゲージからめちゃくちゃ離れたので、テーマを変えて以下次回。