在日米軍による少女暴行事件の問題の所在

ややこしいので、結論から先に書く。この事件で被害者側の事情を云々することに何の意味もない。
この問題を考察する際に、議論を単純化するために、一つの条件を措定する。日米安保は日本の平和に不可欠である、と。もちろん左右問わず批判はあるだろう。しかしここを取り敢えず前提としたい。その方が問題の所在がはっきりするからだ。
この事件の問題は、在日米軍の負担を沖縄に押し付けて、知らぬ顔を決め込む無責任にある。この「無責任」という批判は私に当然該当する。私は沖縄県民の苦しみの上に築かれた日米安保体制による日本の安全保障の福利を享受している。
在日米軍兵士による犯罪というのは、日米安保体制の負の側面である。それを見て見ぬふりをし、沖縄の人々に押し付けることで、私は日米安保体制の利益を我が身にも受けているのだ。沖縄だけではない。在日米軍が駐留することによる日本の安全保障と引き換えに負の側面を基地の周辺の人々に押し付けているのである。その上にあぐらをかいているのである。
まずはこの現実を直視する必要がある。もちろんそれを認めたうえで、将来の日本の安全保障政策をどうするべきか、という議論はある。安保体制の見直し、とか、安保体制を破棄する、とか、破棄した後、自主憲法を制定して独自の軍事力を保有するとか、非武装中立の道を歩もうか、とか、議論は自由だ。しかし現時点において私は日米安保体制による米国の傘の下に入る、という安全保障政策の下にいる。
私が理解できない議論は、この問題において、被害者側の責任を云々することだ。たとえば、この問題を契機にして日米安保体制を破棄しようという動きが活発化する、だからそれを牽制したい、というのであれば、被害者側の責任を云々する必要はないだろう。この種の事件の再発防止をアメリカに強く求めていくことは、現在の日米安保体制を強化することにつながりこそすれ、在日米軍の不要論にはならない。だから現在の国際情勢における日米安保体制の必要性を説けばよい話だ。米軍の危険性を主張したいのであれば、それはわかるが、それは在日米軍の存在そのものを否定しかねない言論だ。しかしそれならば被害者を責めるよりも、在日米軍を強く非難する方が筋だろう。
被害者側の落ち度を論うことで得られる効果について、であるが、それははっきりしている。加害者の米兵の責任を薄めたいのだ。なぜ日本人をレイプしたアメリカ軍兵士をかばうのか。米軍兵士が危険である、という前提に立たなければ、そもそも被害者の非を論うことは無理だろう。被害者の非を論うことは、とりもなおさず米軍兵士全体への危険視につながる。被害者の非を論う人々は、在日米軍そのものを危険な存在と見なしているのだ。その危険な存在である米軍を沖縄に押し付けている自身の怯懦さを直視したくないのだ。だから被害者を誹謗中傷したりするのだろう。
在日米軍兵士全体が危険でない、という認識に立てば、兵士についていった少女に非はないはずだ。米軍は安全なのだから。一部の不心得者がいる、ということを想定しろ、という意見もあるだろう。それはそうだ。つまり警戒しければならない程度の危険な存在を私は沖縄に押し付けている、ということになる。実際、在沖米軍による犯罪はこれが初めてではない。産経新聞週刊新潮など一部のマスコミですら「被害者に非がある」と言えるほど、在日米軍は危険な存在なのだ、ということは親米マスコミでも常識になっている。その危険な存在を沖縄に押し付けて、米軍による安全保障の利益を享受している「私たち」の責任が問われているのだ。
と考えると、被害者の非を論う意味も少しは分かってきた。要するに被害者の非を云々している人々は、米軍兵士そのものを危険と見なしているわけだ。もし在日米軍兵士そのものが危険でない、というのであれば、被害者に非はないからである。ちなみに8時半にうろついていることを問題視する人もいるが、中学生にもなれば、塾でも9時半とかに終わるのだが、そのような現実を知らないのだろうか。私は少女が当時何をしていたのか、全く知らないし、そこから判断できることはないので、この問題については保留しておく。ただ、被害者が行動していたのが8時半であろうと夜中の3時であろうと、加害者の責任が軽減されるとは私は思わない。