観念的なタテマエ論ではなく、具体的な現実観察をすること

米軍犯罪に対する最大の対策とは基地撤去に他ならない。被害者の「落ち度」を論う『週刊新潮』も花岡信昭氏もそれはわかっているだろう。被害者の「落ち度」を論うのは、これをまともに議論すれば「基地撤去」論の声の高まりにつながるからだ。
基地撤去、これこそは沖縄の究極の要求に他ならない。当たり前だ。この当たり前のことをただ反復することは、しかし無意味である。誰もがわかっているからだ。「基地撤去」をお題目のように繰り返すこと、これこそが「観念的なタテマエ論」である。正義の味方になって正論を振り回していることに他ならない。
基地撤去は一朝一夕にはいかない。日米安保体制をどうするのか、日本の安全保障をどうするのか、日本国憲法はどうするのか、さまざまな議論がその前には横たわっている。それを議論するのは必要だ。それならば人のブログに観念的なタテマエ論を書き込んでいる間に自分なりの具体的な現実観察の結果の自己の見解をまとめるべきだろう。
私が今回考えたのは、まずは被害者の非を論うことで、日米安保の抱える問題点から目をそらそうとする動きを牽制することだ。政治的思惑から被害者の名誉を棄損する論調に一矢を報いなければならない。こういう考えからこの前のエントリを上げたのである。私が想定したのは被害者の非を論うことで日米安保体制の矛盾から目をそらそうとする人々からの書き込みであった。しかし実態は違った。いきなり「基地撤去」という観念的で抽象的な「正論」であった。コメントをくださった「キチはそとへ」氏はどういう立場で「基地撤去」をおっしゃっているのかわからないので、あまり言及はできないのだが、少なくとも抽象的で観念的な「正論」しか述べていない。コメント欄という限られた場所なので、仕方がない、というのは逃げである。そもそもコメント欄という場で出来ないのは承知で自分の意見を開陳しようとしたのは「キチはそとへ」氏である。「キチはそとへ」氏は「現状認識ができたら問題の根本的解決策を考え、かつ述べましょう」と言う以上、自身の具体的かつ詳細なプロセスを提示する責任がある。私から問いたいのは、今、この時点で我々が沖縄のために出来得ることは何か、である。「基地撤去」に至る具体的な見通しをまずは提示しなければならない。
実際問題として「基地撤去」という結論は護憲・改憲両方から出せる意見である。護憲派ならば、日米安保条約を廃止して、日本を非武装中立の国にもっていく、その先の長いプロセスの一里塚として日本国憲法第9条を堅持する、というような見通しがあるだろうし、改憲派の中でも核武装を考えている人々ならば、日米安保を廃止して日本軍を整備し、核戦力も保有する。米軍基地撤去というのは、核武装派や非武装中立派双方とも肯定できる議論なのだ。米軍に依拠するしかない、という「現実主義」派は肯定できない議論なのだ。「キチはそとへ」氏はどちらなのだろう。