15世紀における琉日関係

15世紀の初頭における日本と琉球国王とのやりとりとして、いくつか文書を挙げる。

御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ
    応永廿一年十一月廿五日
     りうきう国のよのぬしへ(朱印)

これは応永21(1414)年に足利義持から尚巴志に送られた書状である。これは室町殿の私的な文書である御内書と言われる形式であるが、一つだけ顕著な特色がある。仮名書きである。普通の御内書を見てみよう。

馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀一腰、鎧五領、香合、盆、金襴一端遣之候也
      卯月七日 安藤陸奥守殿

これは「安藤陸奥守殿」こと下国康季に送られた足利義持の御内書である。漢文体であることがわかる。室町殿が守護大名に出す御内書は漢文体で書かれる。これは御内書に限らず室町殿が出す文書は原則漢文体である。琉球国王への御内書のいが仮名書きであったことについては、琉球内部の文書が原則仮名書きであったことと関係がある。室町殿は琉球国の事情に配慮して仮名書きと言う特殊な文書形式を選択したのであろう。これは室町殿にとっても琉球国が完全に「異国」として意識されていたことを表すだろう。「同種同文」という意識があった、とは思われない。もし室町殿に「同種同文」意識があったとすれば、室町殿は漢文体を選択したであろう。しかし朝鮮国王に対する文書とも異なる。朝鮮国王に対する文書は明の華夷秩序に即応した文書を原則として出している。特殊な琉球観が室町幕府側にあったのだろう。
室町殿が琉球国王に出す文書が特殊な仮名書きによる御内書形式であったのに対し、琉球国王から日本国王たる室町殿に出す文書はどのようなものであったのか。以下に掲げる。

畏言上
 毎年為御礼、令啓上候間、如形奉捧折紙候、随而去年進上仕候両船、未下向仕候之間、無御心元存候。以上意目出度帰嶋仕候者所仰候。諸事御奉行所へ申入候定可有言上候、誠恐誠惶敬白
   応永廿七年五月六日  代主印

これは尚巴志から足利義持に出された文書である。
日本国王たる室町殿と琉球国王との文書から見られる特色と言えば、室町殿があくまでも国内の諸勢力に対するそれとは対応を変えていたことが特筆されよう。室町殿にとっても彼らは「異国」だったのである。第二に、通常の「異国」とは異なる対応であることである。それは琉球国王側にも通じる点であるが、使う年号が「応永」である点である。明の海禁・華夷秩序体制の下では年号は基本的に明の年号を使うことになっている。斯波義将の死後、明の海禁華夷秩序から離脱した室町日本は朝鮮への文書にも応永年号を使い、またそれを朝鮮側にも強要してトラブルを引き起こしていた。琉球との関係でも応永年号は変わらないが、琉球がそれに抵抗した形式はなく、日本への親和性をうかがわせる。もう一つ注目されるのは、年号と位署の関係を見ると、日本国王たる室町殿足利義持の方が、琉球国王尚巴志に対して上の立場に立っていることである。
といいたいところだが、実はからくりがある。そのからくりについては次回以降。