琉球の隆盛

琉球の外交を支えた集団は二つに分かれる。諸外国と琉球との間の外交を担当していたのは明人であった。これは明が琉球の外交を支援するために送り込んだ集団である。主に現在の福建省の人々が送り込まれ、彼らは「閩人三十六姓」と呼ばれ、彼らの居住する地域を「久米村」と呼んでいた。彼らの人事を掌握していたのは明皇帝であり、彼らは明に帰属意識を持っていた。また琉球の貿易船は「進貢船」と呼ばれるが、これも外洋航海に適した船で、これは明の技術援助を受けていた。
一方日本との関係においては日本から派遣された禅僧が日本との外交を担当していた。日本国内でも当時外交を担当していたのは相国寺の禅僧であった。これは日本と琉球が使っている言語が類似している点から選ばれたものであろう。ただ全く同じではなかったのは、日本国王から琉球国王への文書が相手側に合わせた仮名書きとなっている点に現れている。したがって「同種・同文意識」とまで言えるかどうかは疑問である。
琉球を支えた経済基盤は、明と東南アジアとの中継貿易であった。明は海禁体制を敷いていた。「海禁」とは「外海通蕃禁」と呼ばれ、海外渡航や異国人との交流を制限する制度である。「人臣無外交」ということで、国王のみに「外交」の資格を与えたのである。しかし日本は19回、朝鮮が30回ととても明内部の経済的要求を満たすには足りない。実際には琉球を介して貿易体制は構築されていたのである。明の全面的な援助の下、琉球の外交使節は東南アジア諸国に赴き、その品物を明に朝貢する。明からの回賜品を東南アジア諸国に交易する。これが琉球を支えた経済的基盤であった。
15世紀の琉球を時代区分上「古琉球」と呼称する。琉球の歴史は新石器時代に遡れる。旧石器時代の遺跡は現在発見されていない。その後は貝塚時代と呼ばれる時代となるが、前期貝塚時代を縄文時代とする見解もある。12世紀頃から農耕社会となった琉球按司と呼ばれる有力者が台頭する。十四世紀には山北・中山・山南の3つの勢力が台頭し、それぞれが明との関係を取り結んでいく。1370年には程復が琉球にやってきて中山王察度に仕える。1372年には楊載が来琉し、察度は弟の泰機を遣わし、入貢する。その後山南王の承察度、山北王の帕尼芝が相次いで入貢し、琉球が明の冊封体制に組み込まれることになる。
1406年に山南の佐敷按司尚思紹尚巴志父子が中山王を滅ぼし、中山王を継承する。1416年に山北王が滅ぼされ、1421年に尚思紹の王位を尚巴志が継承する。1429年には山南王が滅亡し、琉球は統一される。義持が琉球国王と文書をやり取りしていたのは、おそらく尚巴志の王位襲位と関係があるだろう。明との冊封関係を拒否した義持の死に際し、明の宣徳帝は琉球を介して日本との関係を復活させた。
1439年の尚巴志の死後、後継者争いなどで琉球の政治は混乱に陥り、1453年には後継者争いから首里城が炎上し、後継者を争っていた二人とも死亡するという事件が起こる。混乱を収拾したのは家臣の金丸であった。金丸は尚円と名乗り、琉球国王を襲位する。1472年には冊封も受けるが、混乱した琉球への不信感からか、1474年に福州における琉球使節の放火殺人事件を契機に二年一貢に減らされる。その背景には琉球の混乱に伴う南海交易における琉球の地位低下があるだろう。
このような状況の中、1477年に尚真が王位を継承し、琉球の再建を託されることになる。