戦国時代

戦国時代はいつ始まったのだろうか。なぜ戦国時代に突入したのだろうか。そもそも戦国時代とは何だろうか。
一般に言われている概念では、応仁の乱室町幕府が求心力を失い、諸国の大名が自立し、さらには下克上の世の中になって戦乱の時代になっていった、という図式になるだろう。従ってこの時代には中央権力は存在しない。では「日本」はどこに行ったのだろうか。そこに歴史的概念ではない、歴史を超越した「日本」が入り込む余地がある。要するに「日本」たる室町幕府が消え、それでも彼らは「日本人」であり続けた。その時しばしば持ち出されるのが天皇の権威である。
結論から言えば、戦国時代にも軸になっていたのは室町幕府であり、室町幕府が滅亡するのは1573年とされているが、それはあくまでも当時の室町殿足利義昭織田信長に追放された時期であって、それ以後も毛利氏のもとで幕府は存在し続けた。義昭はその後も征夷大将軍であり続けたし、京都五山の住持任命権も持ち続けた。そして信長追討の御教書を出し、反信長連合の中心であり続けたのだ。信長死後は柴田勝家に肩入れするが、羽柴秀吉派になった毛利氏の中でいづらくなり、1588年、秀吉に拝謁して隠居領一万石を与えられ、ここに室町幕府は消滅するのだ。「日本」は室町幕府から豊臣秀吉政権に移る。もっとも1585年には関白宣下を受け、1586年には太政大臣として朝廷を押さえるので、室町幕府は存在意義をほぼ失っているのだが。戦国時代の終末はいろいろ考えられるだろうが、1588年までは室町幕府ということを考えれば、1588年というのは候補として考えられる。しかし小田原北条氏攻めという要素も考えなければならない。これに関連する問題として東国ー西国論を考えなければならない。こうなると1590年ということになる。この検討は次回に行ないたい。
では戦国時代はなぜ、いつ始まったのだろうか。これも結論から言えば、1493年の明応の政変である。明応の政変によって室町幕府が二つに分裂する。これが戦国時代の本質である、と私は考えている。
明応の政変とは、細川政元が室町殿足利義稙(当時は義材、後に義尹・義稙と改名するがややこしいので義稙で統一する)を追放した事件である。応仁の乱足利義政の後継争いに端を発していることは周知の事実だが、肝心の足利義尚が早世し、義政の後継には足利義視の嫡子義稙が擁立されることになった。それに反発した細川政元は義稙から距離を置き、その間に幕政の実権を握ったのは畠山政長である。政長は対立していた畠山義就の子息畠山基家を討伐するために、義稙と河内に出陣する。その留守中に政元は基家と連携して政長を自害させ、義稙を捉えて幽閉し、代わりに義政の弟政知の子どもで天龍寺の僧であった清晃を還俗させて室町殿にする。義澄である。しかし義稙は政長の遺臣神保長誠を頼り、越中を経て周防の大内義興のもとに亡命する。その結果室町殿は二つに分裂し、求心力を失う。畿内は義澄を擁立する細川氏が実権を掌握し、細川京兆専制体制と呼ばれる政治体制を樹立し、義稙を擁立する大内氏を筆頭とする大内氏と対立して戦国時代に突入する。
戦国時代の動きを概観しておくと、細川政元が暗殺され、政元の養子であった澄之・澄元・高国が抗争する(永正の錯乱)。永正の錯乱に乗じた義稙は大内義興細川高国の援助を得て上洛して義澄を廃し、将軍に復位する。しかし高国と対立した義稙は阿波国三好元長を頼る。高国は義澄の遺児義晴を擁立し、義晴の弟で兄と対立した義維は義稙のもとに出奔し、室町殿の分裂は継続する。義晴の跡を継いだ義輝は義維の子の義栄に殺され、義輝の弟義昭が義栄を倒す。義昭が義栄を倒す過程で台頭してきたのが織田信長である。織田信長足利義昭を仲介したのが当時義昭の亡命先の朝倉義景の家臣であった明智光秀であった。その意味で戦国時代を終結を信長入京に求めるのは筋は通っている。信長入京によって室町殿分裂は回避されているからである。これも有力な候補となり得る。
このような室町幕府の分裂は何をもたらしたか。戦国時代には各地の大名が、被官・国人の統制を強化し、独自の法律である分国法を設定するなど、自立性を強める一方で、官位や守護職偏諱を求め、室町殿の権威は必ずしも低下したわけではなかった。役割分担としては、官位の授与は朝廷が行い、偏諱(将軍の一字を給わること)や守護職は室町殿の担当であった。
偏諱の著名な例を挙げると、足利義晴偏諱を受けた武田晴信(信玄)、足利義輝偏諱を受けた上杉輝虎(謙信)・毛利輝元などがいる。さらに多額の献金をすれば「義」の一字を賜ることがあった。足利義輝から受けた朝倉義景足利義晴から受けた今川義元などがある。