シャクシャイン戦争

シャクシャイン戦争は1669年に起こったアイヌ最大の対和人闘争である。これに敗北したアイヌは和人に従属させられるようになり、交易を主流としていた前期アイヌ文化は終結し、後期アイヌ文化がはじまったとされる。しかし以前にも述べた通り(「2006-09-02 - 我が九条」)、日本への従属を問題にするならば、徳川日本から自立した存在としてアイヌが存在した時代と、徳川日本に完全に編入された時代を分けるべきであり、それを言うならば19世紀初頭の蝦夷地併合である。一旦松前藩に返却されるので目立たないのだが、実は松前藩に返されてからも以前のアイヌー日本関係は戻らなかった。商場知行制から蝦夷地勤番制への転換とされている。
それはともかくシャクシャイン戦争を今日確定している史実から追ってみよう。
メナシクル・シブチャリの惣大将カモクタインとシュムクル・ハエのオニビシの間には長い間イウォル(漁場)をめぐる争いが存在した。一六四八年、メナシクルのシャクシャインがオニビシ配下のアイヌを殺害するという事件があった。一六五三年、メナシクル惣大将カモクタインが殺害される。五年前の事件の報復だろう。その結果、シャクシャインが惣大将を継承することになる。泥沼化した両者の対立は一六五五年、松前藩の仲介で停戦となる。しかし一六六八年、オニビシがシャクシャインに殺害される。オニビシの義兄のウタフは松前藩に訴えるも松前藩は黙殺した。これは「夷次第」の原則、つまりアイヌの問題には松前藩は介入しないおちう原則に則ったものである。要するにアイヌの内政不干渉の原則が松前藩アイヌの間に存在していたのだ。落胆したウタフは松前からの帰途の一六六九年に病死する。その時に「ウタフが松前藩に毒殺」という噂が出回った。これがアイヌに届き、結果シャクシャインは数千のアイヌを率いて挙兵した。交易船が襲われ、砂金堀や鷹狩りが襲われ、276人の犠牲者が出た。松前藩は幕府に救援を求め、それに呼応して旗本松前泰広が派遣され、津軽・南部・秋田の三藩に軍役が課せられることとなった。クンヌイでシャクシャイン軍は松前藩に敗北する。さらに江戸から到着した松前泰広が六二八人の軍で出動する。さらに味方夷の帰順工作も行われ、シャクシャインの劣勢は蔽うべくもなかった。松前藩シャクシャインと和睦を行うが、和睦の席でシャクシャインが暗殺され、シャクシャイン戦争は終わりを告げる。同心の和人二人も極刑に処せられた。
これだけみるとシャクシャインの「暴動」というのが正しいように思われる。アイヌ過激派の引き起こした暴動によって276名の和人が殺害されたのだ。
しかし江戸幕府はそのような見方はとらなかった。江戸幕府に「アイヌによる和人大虐殺」ではない情報をもたらしたのが津軽藩密偵である。津軽藩シャクシャイン戦争に際し杉山八兵衛・須藤惣右衛門・吉村場左衛門指揮の軍勢を派遣した。しかし松前藩津軽藩の部隊が和人地から出ることを好まず、松前の防備に当たらせた。戦争後の70年に不審に思った津軽藩は牧兄右衛門・秋元元左衛門の二人の藩士津軽アイヌを付けて蝦夷地に潜入させた。松前藩の宣伝とは異なるアイヌの世界がそこには広がっていたのである。まず松前藩はまたかもアイヌ対和人の二項対立で説明していたが、実際にはシャクシャインに当初から同心しなかったアイヌが多くいた、ということである。イシカリのハウカセやヨイチの八郎右衛門、シリフカのカンニシコルらがその例として挙がっている。彼らは中立を保っていた。というよりもそもそもシャクシャインの動き自体が日高地方に限定された局地的なものだったのだ。
津軽藩士はアイヌの不満を丁寧に聞き取りしている。彼らの不満を纏めると次の3つになる。まずは鮭と米の交換レートの悪化。二つ目に金堀や鷹待によるイウォルの侵犯、そして和人漁民による鮭の乱獲。一点目の鮭と米の交換レートの悪化というのは、カンニシコルの言葉によれば、松前公広の時代には鮭百匹で米二俵だったのだが、公広死後、松前藩の実権を掌握した蠣崎蔵人によって鮭百匹に対して米八升(0.8俵)となった、というのである。米の値段が二倍以上に高騰したのである。この原因は二つある。一つは本州でも飢饉で米がただでさえ不足していた、という側面がある。もう一つは津軽藩秋田藩が対アイヌ交易から排除されたことで、対アイヌ交易を独占した松前藩の言い値で値段が決定されたことがある。
松前藩も対策は講じていた。松前藩シャクシャイン戦争後、アイヌとの鮭と米との交換レートを鮭百匹に米一俵というように固定する。さらに大網による鮭の乱獲の禁止、蝦夷地への和人定住禁止と蝦夷地への交易船派遣制限を行った。和人が止めどなく蝦夷地に流入し、アイヌの生活を脅かすことのないように配慮したのである。シャクシャイン戦争はアイヌの従属を強めたのではない。シャクシャインは敗れたとは言え、シャクシャイン戦争を契機にアイヌの生活を脅かしてきた和人の経済進出は一旦抑制され、アイヌの生活基盤や生活文化は一時的にでもあれ平穏が保たれたのである。その意味でシャクシャインは英雄だったのである。
江戸の人々もシャクシャインを英雄視した。18世紀初頭にはシャクシャインが軍法に優れ、才覚に富み、筋目正しいものとして評価され始めた。源義経伝説と結びついたのである。兄頼朝の迫害を逃れ、蝦夷地に渡った義経蝦夷地に住み、アイヌの王となって、その子孫が英雄シャクシャインだ、というのである。しかし18世紀半ばにはシャクシャインは忘れられ、義経アイヌの神「オキクルミ」である、という形に変えられる。ロシアの進出が始まっていたのだ。ロシアに対抗するためには蝦夷地と日本の関係を強める必要がある。シャクシャインという媒介項は必要なくなったのだ。
抑制されていた蝦夷地への和人の進出も再び始まる。ロシアの進出という問題もあっただろうが、より直接的には松前藩の財政悪化という問題がアイヌの命運を決したのである。